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トルコ戦前夜の思い
イスタンブールでコーヒーを
イスタンブールでボスポラス海峡を見下ろしながら、コーヒーを飲みたい――と思うようになったのは、、いつごろからだったか――。
大学予科のサッカー部長であった中世史の大家・堀米・庸三(ほりごめ・ようぞう)さんの著「歴史家のひとり旅」の影響かもしれない。
すでに故人となった先生は、イスタンブールのヒルトン・ホテルでビールを飲みながら、ビザンツ帝国からオスマン・トルコ、そして現代に至る壮大な歴史に思いを巡らせたのだろうが…。
近代トルコ建国の父であるケマル・パシャ(アタチュルク)の「トルコの顔は西を向く」という政策をいち早く実行したのは、この国のサッカー人。
海峡の東にありながら、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)の1958―60年シーズンから参加している。
それも、チャンピオンズカップに参加するために、それまでノックアウトシステムであった国内選手権を、欧州並みのリーグに変えた――国内体制の変革をも伴っている。
アジアにあって、長く独立国であった日本が、明治以降に急速に欧米風となり、スポーツも盛んになった。しかし、その国内での仕組みはヨーロッパとはまったく関係なく、違った形で発展してきた。
そうした私たちよりも一歩進んでいるように見えるトルコのサッカーを、一度、自分の目で確かめたいという願いが、ボスポラス海峡を見下ろして…」と、空想になって続いていた。
キラクル氏と反露親独
その夢はなかなか実現しないが、トルコと私とは、縁がないわけではない。1974年のワールドカップでIDカード作製の写真をとってもらうときに、私のすぐ前にいたのが、トルコのイズミール新聞のカメラマン、ハッサン・キラクル氏。
ワールドカップで私が最初に言葉を交わした外国人プレスであった。彼とはその後、大会ごとに顔を合わせている。
その西ドイツ大会の開幕試合が行われたフランクフルトのハウプトバーンホフ(中央駅)の近くにトルコの人たちが多くいた。経済好況の西ドイツへ仕事を求めてやってきた人たちで、トルコ料理の店もいくつかあった。
もともとトルコという国は、地政学的にロシアの南下政策の脅威を受けてきたから反露親独=Bついでながら「反露」は「親日」にもつながり、日露戦争で日本の勝利を喜んだとはキラクル氏の話。
デアバルとガラタサライ
この74年大会で優勝した西ドイツ代表監督のシェーン監督を補佐したデアバル・コーチは、6年前に釜本邦茂を直接指導し、彼の大進歩に手を貸してくれた。
78年秋から西ドイツ代表監督を務めていた彼を、84年の釜本・引退試合に招待した。しかし、直前になって「トルコのガラタサライの監督となったので、残念ながら日本には行けない」との返事が来た。
そのデアバル監督を得た、トルコで最も歴史のあるチームの現代サッカーへの脱皮が、この国のサッカーの実力アップにつながる。
1996年の欧州選手権(イングランド)予選でトルコは、スウェーデンやハンガリーを押さえて16チーム集結の本大会に出場した。一次リーグで敗れはしたが、その粘り強いプレーに注目を集めた。
私にはそのことと、一次リーグでイングランドを苦しめたスイスで、トルコ系のキュルキリマスという名の選手の粘っこいキープや深い切り返しが面白かった。
トルコ代表については、もう一つ思い出がある。それは1997年のキリンカップ、大阪での最終戦で日本が1―0で勝った試合である。その試合で私は、森島のゴールを喜びながら、中田英寿を見た興奮が忘れられない。
それまで、生でみるチャンスがなかった中田英寿のプレーを代表の中で発見して、こういう選手が出てくるようになったのだから、フランスへはきっと行けるだろうと思ったものだ。
――そういえば、トルコ人たちは早くから中田英寿を知っている――
6月17日、トルコ戦を翌日に控えて、私はなかなか眠りに入ることができなかった。
(週刊サッカーマガジン2003年5月13日号)