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フリッツ・バルターへの弔意

ドイツvs米国

 ドイツの選手たちの右腕に黒の喪章が
付けられていた。
 キックオフ直前、配置についた両チームの選手が黙祷した。NHKのテレビカメラは静寂のスタンドの一隅に「DANKE FRITZ」(ありがとう、フリッツ)と書かれた看板を掲げる人たちを映していた。2002年6月21日、午後8時30分、ワールドカップ準々決勝第1日、韓国・蔚山でのドイツ対米国が始まろうとしていた。

1954年大会のヒーロー

 フリッツ・バルター(Fritz Valter)が6月17日に亡くなったという。1920年10月31日生まれ、81歳だった。
 54年にスイスで開かれた第5回ワールドカップで初優勝したドイツ(当時・西ドイツ)のキャプテン。当時、ドイツ随一のボールプレーヤーで、代表の軸となって攻撃を組み立て、自らもゴールを奪った彼は、そのときの監督であったゼップ・ヘルベルガーとともに、ドイツ・サッカー史の“巨人”の一人だった。
 スイス大会は“無敵”のハンガリーが最有力の優勝候補だった。
 西ドイツは1次り−グでのハンガリー戦に2軍を主にして戦い(3-8)、相手の手の内を知り、再び決勝で対戦して3-2で勝った。その奇策を批判する人もあるが、第2次大戦で敗れ、打ちひしがれているドイツ国民にとって、この優勝は大きな自信を与え、活力を取り戻す源となった。

日本代表にも範を示す

 私が彼の名を聞いたのは、53年に来日した西ドイツのクラブ「オッフェンバッハ・キッカーズ」の選手からだった。このチームにはプライゼンドルファーという体格の良いセンターフォワードがいて、ずいぶん活躍したが、西ドイツ代表のオテマール・バルターにはかなわないという。そして、オテマールよりも兄のフリッツがもっとすごい選手だと――。
 フリッツは4年後のスウェーデン大会にも出場、4位となっている。37歳だったが技術は衰えていなかったらしい。
 その彼は61年の日本代表のドイツ合宿のときに、クラマーの頼みで一日一緒に練習してくれた。監督だった高橋英辰さん(故人)の話では、日本選手はそのロングパスの正確さに驚き、松本育夫たちが八重樫茂生に「こういうパスが来るなら、いくらでも走ります」と言ったという。のちにパスの名手となる八重樫や宮本輝紀は、このとき、大きな刺激を受けたのだった。一度、会って話を聞きたい人だったのに――、巨星がまた一つ消えた。

(週刊サッカーマガジン2003年10月21日)

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