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ネルソン吉村を想う

19歳で来日、ヤンマーとセレッソ一筋

 11月1日、ネルソン吉村大志郎が亡くなった。56歳だった。吉村大志郎(よしむら・だいしろう)の名で日本国籍をとったが、親しい仲間はネルソンあるいはネッコと呼んでいた。ボールを扱う柔らかさがネコがボールとじゃれ合うのに似た感じだったからだ。
 11月2日に通夜、3日に告別式が尼崎市西長川町の阪神平安祭典会舘で行なわれた。野田神父司禁のカソリックの簡素な式には、驚くほどの多数の人々が参会した。鬼武健二葬儀委員長(大阪サッカークラブ会長)や今村博治ヤンマーOB会会長、堀井美晴友人代表のそれぞれの心情あふれる弔辞や、涙とともに献花し「お別れ」する長い列に、あらためてネルソンのプレーと誰からも愛された人柄を思った。
 のちにブラジルからやってきたジーコや、ドゥンガやジョルジー二ョといった大スターでもなく、セルジオ越後のようにプロのキャリアもなかったが、日系人クラブで高く評価されていただけあって、来日早々の彼のボールテクニックは、当時の日本サッカーリーグで異彩を放った。柔らかいボールタッチ、ボールを空中に浮かせて、相手をかわす軽妙な身のこなし、ボンと無雑作に蹴るキックの正確さは、リーグの人気を高めた。

釜本のプレーにも影響

 ある日、ヤンマー神崎工場グラウンドの練習をのぞくと、鬼武監督が選手たちに胸のトラッピンクを自ら模範を示して練習させていた。やがて順番がきて、吉村がプレーすると監督は「これは吉村がうまい。皆、ネルソンのマネをしろ」と言った。吉村は、ボールを胸で弾ませずに、するりと足もとへ落とすのだった。
 釜本邦茂が、このネルソンの柔らかいトラッピンクに注目して、いつも彼とボールのやりとりをし、観察し、自分に採り入れたのが、独特の「胸のトラッピングからのシュート」の形。メキシコ・オリンピックでも威力を発揮した。
 面白かったのは、ある講習会でネルソンが「フェイントの型」を見せてほしいと言われ、「相手がいるから抜けるので、型なんかできないよ」と言ったこと。サッカーは「習うもの」と考えていた日本の指導者たちにはショックだったろうが、「学ぶのではなく自分で身に付ける」ブラジル流儀がそこにあった。
 彼を移入して成功したヤンマーになって各チームがブラジルから選手を招いた。そして現在、ブラジルなしの日本サッカーは考えられないまでになっている。
 これも、彼の鮮烈なデビューとネルソンの素晴らしい人柄あってのこと――身びいきと言われようが私は、そう思いたい。

(週刊サッカーマガジン2003年11月25日号)

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