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素晴らしきサッカー仲間たち

 サッカー・クロニクルを始めたいと思います。世界と日本のサッカーの流れ、それを築いた人たちを私の人生の歩みと重ねて眺める言わば私家版のサッカー物語。蹴球太平記といったところでしょうか。


ペレのサインボール

 ピンポンとチャイムが鳴って、宅配便が届いた。
 大きなショッピング・バッグの中にはペレのサイン入りの5号の白黒ボールと、手紙が一通。
「今回のペレのパーティーは残念でした。92年にストックホルムでお会いして以来、いろいろな大会で賀川さんとお会いできるのを楽しみにしてきました。またお会いできる日を楽しみにしています」(Tony SINGORE)とあった。
 99年12月7日に2002年ワールドカップの予選ドローが東京の国際フォーラムで行なわれたが、その前日、ホテル・オークラでペレのレセプションがあり、出席できなかった私に、このパーティーの企画者であるマスターカードのエージェント、トニー・シニョーレが、ペレのサイン入りボールを送ってくれたのだった。
 いつもながらのトニーの気配りに感謝しながら、彼と初めて会った92年のヨーロッパ選手権を思う。
 このときに私に会わせたい人がいるからと、連れていかれた一室にペレがいた。テレビ・インタビューの最中だったペレは、私の顔を見るとカメラを制し、立ち上がって抱きかかえ、「元気ですか。カマモトにも会いましたよ」と言った。
 ペレには72年にサントスで来日したとき、国立競技場でのゲームも、大阪でのクリニックも取材しているが、親しく話を交わしたのは84年の釜本邦茂引退試合に彼を招待してヤンマーでプレーしてもらったとき。それを覚えていたらしい。「前から知り合いだったんだね」とその場でトニーは喜んだものだ。
 ペレのサインは、書棚にあるいくつかの本に残っているが、サッカーボールは、阪神大震災で倒壊した書庫兼事務所の片付けのお礼にと、甥に渡したのが最後だったから、早速玄関に飾ることにした。


五輪代表がマッサージ

 サッカーにかかわってありがたいのは、多くの素晴らしい人たちにめぐり合えたことだ。
 大正13年(1924年)12月29日生まれ、昨年の誕生日で満75歳になった私は、神戸で生まれ育ったおかげで、戦前のマイナースポーツであったサッカーの中で、まことにぜい沢な環境にいた。
 雲中小学校のときに「蹴球」を教えてくれたのは、御影師範の卒業生のなかでも傑出していた山口先生。上手なだけでなく、当時の陸上100メートル世界記録を持つ吉岡隆徳に50メートルで勝ったという伝説の持ち主だった。
 旧制の神戸一中(現在の神戸高)では日本代表クラスが、春夏の練習にぞろりと集まってきた。
 ベルリン・オリンピックで活躍した右近徳太郎さんは、全国中学選手権(現在の高校選手権)大会の合宿では中学生の足をマッサージしてくれた。
 少年期に、当時としては最上のもの、現在のプロの世界にもってきても本物と言えるプレーヤーを見たのは、とても大きなプラスだった。
 学生から軍隊へ、そして陸軍航空の特別攻撃隊となった後に敗戦。社会の大変動にもまれながらもサッカーとは別れられず、京都で学生を集めて会費を徴収して講習会を開き、「本邦初のプロコーチ」などと称した。
 縁あってスポーツ記者になり、スポーツを取材して文字に表す仕事の楽しさに、あっという間に50年が過ぎた。


岡野会長の選手時代

 記者稼業のスタートに、アムステルダム・オリンピック(28年)の水泳代表であり、スポーツ記者の巨星であった木村象雷(きむら・しょうらい)に師事したのも、幸運だった。 当時の産経新聞編集局は、運動部の向こうの文化部に司馬遼太郎がデスクで座っていた頃。運動部にも社会部にも司馬さんと張り合う文章家のデスクたちがいたのも、おきな刺激だった。
 残念ながらディステファノの盛期を見ることはできなかったが、ペレは円熟期に、ベッケンバウアーとクライフは絶頂期、マラドーナや釜本は少年期から最盛期を経て引退するまでを見た。
 岡田武史監督の特徴ある眼鏡は中学生のときに知った。ブラジル留学中の若きカズに会ったのは87年南米選手権のとき。長谷川健太らは、清水の小学生からだ。
 多くの選手が育ち、やがて第一線を退く。そのなかには学生時代は選手として、今は日本サッカーの要人としてなお、私の取材相手でもある長沼健・日本サッカー協会名誉会長や、岡野俊一郎・日本協会会長、あるいは川淵三郎Jリーグ・チェアマンたちもいる。
 私よりも年長の、あるいは年少の素晴らしいサッカー仲間と彼らが演じた物語を、書いてみたい。それを今を生きる人たちにも楽しんでもらえれば、20世紀の4分の3を暮らしてきた私にとってはとてもうれしいことだ。


(週刊サッカーマガジン2000年2月2日号)

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