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兄は少年野球の三振奪取王

パリ五輪の年に生まれて

 私が生まれた1924年はサッカー界では大きなニュースのあった年だった。
 一つはオフサイド・ルールの改正で、それまではボールより相手ゴール側に3人以上の相手がいなければならなかったのが、現行の2人になった。6月の決定で、実施は次のシーズンから。日本では大正14年から変更のはずだった。
 パリ・オリンピックでのウルグアイの優勝もヨーロッパの人にはビッグニュースだった。
 明治6年(1863年)に築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で英国海軍のダグラス少佐と部下たちが訓練の合間にサッカー(フットボール)を行なったのが、日本でのサッカーの記録。この英国海軍の将兵たちが行なった運動会が日本の陸上競技の歴史でも「仕事でなく、遊びで走った」ものとして1ページを飾っている。
 港町神戸では、サッカーの試合が市民の目に触れた最初の公開試合として、神戸と横浜の両外国人クラブが対戦した。
 その第1回は明治21年(1888年)に横浜で行なわれているが、前年の明治20年3月の「神戸港新聞」が、「居留地で蹴鞠会が開かれた」とKRAC(KOBE REGATTA&ATHLETIC CLUB)がサッカーを行なったことを報じたのを起源として、神戸をサッカー発祥の地と称している。
 発祥というのは、「ものごとが起こり、栄えること」とある。最初にサッカーをした土地ではないが、サッカーが起こり盛んになった土地であることは確かで、「日本サッカー神戸発祥論」は我田引水的ではあるものの、誤りではないと私は思っている。


路地でのサッカー

 神戸市葺合(ふきあい)区=現在の中央区=熊内橋(くもちばし)通り2丁目で生まれた私は、昭和6年12月に雲中(うんちゅう)小学校に通うようになって、スポーツに親しんだ。
 父・陸蔵が貿易会社に勤め外国人とも交流があった関係から、まず冬の日曜日は六甲山上のアイススケート、外人さんの別荘の池に氷が張った上で滑りまくったものだ。
 夏は低学年の間はやはり野球だった。大正4年(1915年)、大阪の豊中で始まった中等学校大会は大正13年に甲子園球場に移転すると、その巨大球場のメッカとしての魅力も加わり、どんどん盛んになっていった。
 ショートストップで、クラス対抗では一番バッターだったが、学校対抗のレギュラーではなかった。2歳年長の兄・賀川太郎は雲中小学校のエース投手で、神戸市主催の大会で、三振奪取王になり優勝した。
 同じ年齢にのちの巨人の豪球投手である別所毅彦がいて、大開小学校の彼は速球派、兄はコントロール派で少年たちの間ではちょっとした有名人だった。
 野球ほどではなかったが、サッカー(蹴球)も人気があった。とくに雲中小学校は、御影師範学校出身のサッカー好きの先生が多く、先生同士、先生対生徒チームの試合もあった。
 学校だけでなく、家の前の路地での、ストリートサッカーは、それこそボールが見えなくなるまで遊んでいた。


おじゃみと缶蹴り

 町のほとんどが傾斜地の神戸では南北の通りは坂か、あるいは短い平坦な道を石段でつなぐことになる。
 そのなか、4メートルもない狭い路地での野球では、まず家の塀や窓ガラスに打球を当てないようにまっすぐ打つこと、サッカーでは小さなゴムボールを蹴るよりもドリブルで抜いていくことが主だった。
 路地サッカーとともに神戸らしい遊びは「缶蹴り」と「おじゃみ」だった。前者は鬼が守る柱をさわる代わりに、円のなかの空き缶を鬼のいない間に蹴っとばしてしまう。
 後者は神戸の南京町から伝わったものの変形で、小さな袋に小豆を詰め(女子は手で放り上げお手玉にした)、それを足で蹴り上げる。いまでいうボール・リフティングで、インサイドやアウトサイドで数を競ったものだった。
 おじゃみは日本テレビが高校サッカーの特集番組で取り上げ、神戸FCの子どもたちに中華街で実演させていたから、ご覧になった方もあるかもしれない。
 そのおじゃみを家の前でやっていたら、隣の家に住む中学生が二人帰ってきて、「ちょっとやってみよう」と編み上げ靴にゲートル姿のまま、見事に落とさずに続けるのを感心して眺めたことがある。
 それが金子彌門さんで、のちに私の仕事の先輩でもあり、仲間ともなった大谷四郎さん(故人)のチームメート。この金子さんたちを預かっていた神戸一中の蹴球部長・河本春男さん(現・ユーハイム会長)が、私と兄、そしてわが家をサッカーに引き込んでしまうのだった。


(週刊サッカーマガジン2000年2月9日号)

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