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野球からサッカーへ

コロンブスとサッカー

 スペインのリーグに城彰二が加わって、テレビでの楽しみがまた一つ増えた。
 バリャドリードのホームスタジアム、ヌエバ・エスタディオ・ホセ・ソリージャは82年ワールドカップの1次リーグ4組の会場となり、フランス―クウェート戦では「笛の誤認事件」もあった。
 バリャドリードという町はマドリードから北へ180キロ、15世紀から16世紀のカスティーリャ王国の首都でもあり、アメリカ航路発見者クリストファー・コロンブスが没したところである。
 西へ進めばアジアへ到達できると信じた偉大な航海者(1446年−1506年)の終焉から約5世紀を経て、彼をはじめとするヨーロッパの冒険家たちの夢の地だったジパングから、今度は丸いボールを仲立ちに初の日本人プレーヤーがスペインに渡る―。
 世界をつなぐサッカーは歴史ともまた無縁ではない。
 縁(えにし)と言えば、コロンブスはイタリアのジェノバ育ち。彼らにアジアへの興味をかきたてた東方見聞録をマルコ・ポーロ(1254−1324)が書いたのも、ジェノバの獄中だったと伝えられる。
 そのジェノバはかつてカズこと三浦知良が日本人として初めてセリエAに足を踏み入れた土地。丸いボールが世界中をつなぐパスの網はまことに面白い。


蹴球部入部の理由

 さて、連載の第3回はわが家がサッカーに引き込まれていくところ。
 隣家の2階に神戸一中の先生が生徒2人と間借りして、自炊生活をしていると聞いたのは、小学校何年生のときであったか。先生の名は河本春男(明治43年3月28日生まれ)、刈谷中学校(現在の刈谷高)出身で東京高等師範(現在の筑波大)を卒業するとすぐに、神戸一中に体操の先生(当時は体育とは言っていなかった)として昭和7年に赴任し、その2年後から隣人になった。
 世話好きのわが母・寿美がおかずの差し入れなどをはじめ、河本先生と父・陸蔵と話す機会が増えた。小学生の私はその座談に加わったことはなかったが、先生がテーブルの上に図面を書いて陸蔵にラグビーのルールを説明していた光景は、いまも覚えている。
 兄の太郎が神戸一中(現在の神戸高校、正式には兵庫県立第一神戸中学校)に入学したのが、昭和10年。雲中小学校のときから勉強もスポーツも一番だった彼の野球の素質が買われて、野球部からの誘いはあったが、結局サッカー部(当時はア式蹴球部と言っていた)へ入ることになった。
 野球部の上級生が教室に入ってきて「放課後に部室に来てくれ」と誘ったとき、窓を開けて、廊下から金子さんともう一人がにらんでいたから、とは兄の報告。野球に未練を残していた兄は、1、2年のときはそれほど熱心なサッカー部員ではなかったらしい。


初めて見たサッカー

 しかし隣家の河本先生に「蹴球は紳士のスポーツ、男の競技」とか、「伝統ある神戸一中の蹴球部は文武両道が原則」などと吹き込まれて、父親がまずのめり込む。
 その父に連れられて、初めて本物――と言っても中学生のだったが――のサッカーの試合を私が見たのが、昭和10年4月、花園ラグビー場での全国中学校招待大会。この大会のために花園近辺にチームを泊めなければならぬと河本先生から聞かされた陸蔵が、会社の取引先に宿舎を提供してもらったらしい。
 大谷四郎を主将とする神戸一中は3月に二宮洋一、津田幸男、笠原隆男(後の日本代表)たち7人の卒業生を送り出して弱体化がうわさされていたが、1回戦で浜松一中を4−3、準決勝は延長で韮崎中を5−4と勝ち抜き、決勝は大阪の天王寺師範をこれも延長で5−4で破る。いずれも大接戦で優勝を遂げた。隣家の住人でおじゃみの名手だった(前号参照)CHの金子彌門が縦横に走り回り、前かがみでドリブルする姿と、長身のCF大谷四郎がするすると現れては得点する姿が、印象に残った。
 後ろに2FB、ロービングセンターハーフという言葉を覚えるようになったとき、一番に思い出したのが、金子副キャプテン。
 6歳年長の大谷主将と、後に同じプレスの仕事をはじめ、長く付き合ってもらうことになるとは、10歳の少年には想像できなかった。
 縁という言葉も知らなかったころである。


小学生のころ

昭和5年 東京の極東大会で日本サッカーはフィリピンに勝ち、中国と引き分け、初優勝。
(1930年) 第1回ワールドカップ開催

昭和6年 雲中小学校入学。大日本蹴球協会機関紙発行。満州事変始まる
(1931年)

昭和7年 ロサンゼルス・オリンピック。陸上三段跳びの南部忠平、水泳陣大活躍。
(1932年) サッカーは開催されず。

昭和10年 兄・太郎が神戸一中へ
(1935年)

昭和11年 ベルリン・オリンピック。日本サッカー、スウェーデンに勝つ。
(1936年)

昭和12年 4月、雲中小学校卒業。神戸一中入学
(1937年)


(週刊サッカーマガジン2000年2月16日号)

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