賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む

メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む

「宮本輝紀さんが亡くなられました。こんどの連載は特別版として追悼のページにしてください」
 編集部からの電話に、まだ朝刊を見ていなかった私は一瞬、絶句した。
「どうして? まだ若いのに…」
 2月3日の朝刊各紙はメキシコ・オリンピックサッカー銅メダルのメンバーである宮本輝紀が2日午後3時7分、心不全のため北九州市の病院で死去したと報じた。
 パスの名手であるとともに、日本代表Aマッチ57試合(歴代6位)、20得点、親善試合を含む192試合出場(歴代3位)、45得点といった記録やメキシコの仲間たちの談話を掲載したところもあった。


第1回アジアユース参加

 昭和15年(1940年)12月26日生まれ、私より16歳若い彼と初めて出会ったのは、1959年の第1回アジアユースのときだった。
「アジアのレベルアップのためにはまず若年層のレベルアップが必要」というマレーシアのラーマン首相の提唱で始まったこの大会は、U−20の参加だったが、日本協会は高校生に夢を持たせるため、ハンディを承知で高校選抜チームを派遣することにした。
 前年の国体決勝で戦った山陽高と清水東高のそれぞれのエース、宮本輝紀と杉山隆一は選考会でも満場一致でメンバーに選ばれた。
 二人を含む18人の選手たちは、高橋英辰(ひでとき)監督に率いられて、日本のスポーツ界初の高校生チームの海外遠征で無事に終えるとともに韓国、マレーシアに次いで銅メダルを獲得。
 56年のメルボルン・オリンピックでの1回戦敗退、58年東京での第3回アジア大会で1次リーグ2敗で最下位と、ドン底の気分にあったサッカー界を元気付けた。


小さなスイングのキック

 ユースの遠征のときに、香港やマレーシアの関係者から「日本にも上手な選手がいる」と注目された彼は新日鉄でも日本代表でもMFを務め正確なキックで精度の高いパスを送り、攻めを組み立てた。
 東京オリンピックの翌年からスタートしたアマチュア初の全国リーグである「日本サッカーリーグ」では宮本輝紀をマークしてどう抑えるかが、対戦相手の工夫だった。
 このリーグの東西対抗は初めのうち西軍が連勝するが、それは東洋工業の桑原、松本らの攻撃陣も、ヤンマーの釜本も、「今度はテルさんと一緒、走ればパスが出てくる」と信じていたからだった。
 パスの方が有名だが、実際はシュートもうまい。とくに突っ立ったままの体勢から、右足のヒザから下の小さなスイングで繰り出すシュートは予想外のタイミングだけに、相手GKを悩ませた。
 自分を売り出すことより、チーム戦術を第一に考える彼は、自分よりも若く、スケールの大きいストライカー釜本邦茂が登場すると、杉山との協調で釜本を生かすことに力を注いだ。私は、むしろ「テルさんがもっとシュートをすることでチーム全体の攻撃が幅広くなり、相手の脅威となり、釜本の破壊力もさらに生きる」と、シュートをすすめたりもした。
 そんな期待のためか、メキシコ・オリンピック予選の韓国戦の前夜、彼のゴールの夢を見たものだ。実際に先制点は彼のシュートだった。
 労働力の要求されるMF、いわゆるリンクマンで、彼のパートナーであった7歳年長の八重樫茂はよく、「テルと二人で一番しんどい仕事をしている」と言っていた。
 メキシコでは、その八重樫がケガで戦列を離れたから、仕事はさらに大変だった。3位決定戦でのメキシコの攻勢を「ふらふらになるまで守りで頑張った姿が忘れられない」とはコーチであった岡野俊一郎(現・日本協会会長)の言である。


 このクロニクルの連載にあたって私は、資料を読み直し、人に話を聞き直すことを始めている。
 丁寧なパサーで、シュートのうまい、ボールプレーヤー――宮本輝紀が、あの時代の少年期をどう過ごしたのか。そしてまた、華やかな技を持ちながら、あれだけ"しんどい仕事"を引き受けられたのはなぜか、を聞きたかった。指導者となったいまの彼の考え方も、教えてほしかった。
 いや、ぼくに語るだけでなく、サッカーのために、もっといてほしかった。

  メキシコの星
   また一つ消えて
    西の空

 ちょっと早かったね、テルさん。


(週刊サッカーマガジン2000年2月23日号)

↑ このページの先頭に戻る