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現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん

 高橋英辰(たかはし・ひでとき)―“ロクさん”―が2月5日、肺炎で亡くなった。
 80余年の生涯は、まことにサッカーひと筋―名門・早大の戦前の黄金期の選手で、日立(現・柏レイソル)では42歳までプレー。指導者となっては、東京オリンピック前の日本代表の監督として低迷期脱出の先頭に立ち、日本サッカーリーグでは70年代前半の強チーム“走る日立”を作り上げた。
 アヤックスを訪ねてミケルスの練習法を、ベオグラードにはユーゴスラビアのテクニックを―と世界を回って勉強した造詣の深さにはだれもが脱帽した。雑誌に寄稿し、何冊かの本も著して、ディステファノからファンバステンまでを軽妙に語り、また日本サッカーリーグの総務主事といった要職に就くこともあったが、自身は“現場”を好み、70歳を過ぎてなおグラウンドに立った。
“稀有(けう)”のサッカー人だった

 わたしにとって8歳年長のロクさんは世界と日本の技術史、戦術史の生き証人であり、1959年の第1回アジアユース大会以来の“戦友”―この連載にも折りに触れて登場してもらう、大切な仲間でもあったのに―。


サン+サンでロク

 ロクさんのサッカー人生は、父親の英治さん(刈谷中学第4代校長)ゆかり。
 愛知県立刈谷中学校は、大正8年(1919年)の創立当初から「校技・蹴球」を標榜(ひょうぼう)したが、いささか“戸惑い”のあった初期の職員のなかで最も熱心だったのが英治先生―。その感化で亀城小学校4年のころからボールを蹴っていたという英辰少年が刈谷中学に進んだのだった。
 ロクのニックネームは、このころ校長となっていた英治先生の頭がサン(太陽)のごとく輝いていたので、サンの息子(SON=サン)から「3+3=6」となったもの。

 早大では、2〜3年上に川本泰三、加茂健、正五の兄弟、西邑昌一、佐野理平たちの1936年ベルリン・オリンピック代表がいて、そのころの日本のトップチーム。
 ロクさんはここで戦前派の選手として腕を磨いたが、わたしには早大、あるいはWMW(早大のOBを加えたクラブ)でよりも、自らが創部、強化にかかわった日立でのプレーぶりのほうが印象深い。
 MF、リンクマンとして、守から攻への転換の際のパスのコース、間(ま)の取り方のうまさは特筆ものだった。

ベルリンと東京のリンクマン

 ロクさんが日本代表の監督となったのは、前述のユース大会の翌年から(57年の中国遠征時には一時的に監督)2年間。60年ローマ・オリンピックの予選に敗れ、どん底状態の日本サッカーが64年東京オリンピックに開催国として恥ずかしくないチームを作るため、しゃにむに強化を図ったときのことだった。
 西ドイツからデットマール・クラマーをコーチに迎え、竹腰重丸(ベルリン・オリンピック代表コーチ 故人)、川本泰三(前述)らベルリン組の指導陣に代わっての登場だった。

 2年間、ロクさんはクラマーとともに全国各地で講習会を用いて基礎技術のアップを図り、代表チームには39試合の対外試合の経験を積ませ、毎年ヨーロッパでの長期合宿を行なった。
 公式の試合や大会で結果が見えるまでにはゆかないが、杉山隆一や宮本輝紀たち、後にチームの骨格になる若手が伸びていた。62年に長沼健監督、岡野俊一郎コーチとひと回り若い世代にバトンタッチ。メキシコ・オリンピックの栄光へつなぐリンクマン役を果たした。


“走る日立”に指導者の力

 “走る日立”はロクさんがチームから離れていた間、日本サッカーリーグで下位に甘んじていた日立をよみがえらせた快挙だった。
 サッカーの原点はまず走ること、という単純明快さは、1956年の早大のリーグ2連勝時の“百姓一揆”と通じるところもあるが、70年に日立の監督となって、72年に優勝するまでもっていったのは、選手たちの特性とうまく組み合わせたキメの細やかさがあった。
 松永章、小畑穣、野村六彦、吉田淳弘ら小粒の攻撃陣は、労をいとわぬランに加え、ラストパスとストライカーの動きの向上があって、リーグ最多得点を挙げた。

 自らは「おとぼけのロク」と称したが、よく気の付く実際家で、愛情の細やかな人だった。41年前のユースチームの石平俊徳団長(当時高対連会長)は“サッカーの監督さんは、学校の先生以上に素晴らしい教育者だ”と言った。
 2002年を前に、日本の宝がまた一つ消えた。


(週刊サッカーマガジン2000年3月1日号)

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