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ドリブルの名手、去る 特別編

第2次大戦直後の世界の憧れ

 サッカーの歴史の流れを私自身の人生と重ね合わせて眺めるこの企画ですが、大切な仲間を失ったための追悼が間に挟まって、続きものとしては切れ目が多くなりました。
 今回は前号に続いて、チョウ・デンの指導を受けて、半日でそれを理解、吸収し、急速に上達した中学校チームに入るところでしたが、その前に1940−50年代の大スター、サー・スタンリー・マシューズの訃報がイングランドから届きました。
 若いファンにはなじみ薄い名でしょうが、第2次大戦後の伝説的な右ウイング。私にも、とても懐かしい選手です。

 英国のプロサッカー選手で最初にナイトの称号を受けた「ドリブルの魔法使い」(Wizard of dribble)、サー・スタンリー・マシューズが2月23日に亡くなった。この日、ウエンブリー・スタジアムで行なわれたイングランド対アルゼンチンの親善試合には、両国の代表選手が黒い喪章を腕に巻き、大観衆ともども1分間の黙祷を捧げて、85歳の大先輩を偲んだとロイターは伝えている。
 15年2月1日、イングランド中部のストーク市の生まれ。33年の長いプロキャリアの始まりは、17歳で2部のストーク・シティーでデビューしたときから。19歳で代表に入っているが、私がその活躍を知るのは46年(大戦終結の翌年)に彼がブラックブールへ移ってからだった。ロンドン北北西、アイリッシュ海に臨む小さな町のクラブは、彼とともに人気チームとなる。


ニュース映画での美しいフェイント

 大戦直後の日本は海外からの情報の少ないなかで、パラマウント・ニュース映画でときおり映し出されるイングランド・サッカーの3、4分、リーグの優勝決定や、FAカップのファイナルのシーンは、私には干天の慈雨だった。
 彼のドリブル、あの右足でボールをまたぎ、右足アウトサイドで持ち出す、いわゆるマシューズ・フェイントの速さと美しさ、そしてそのあとに続くドリブルと的確なクロス、味方の頭へピタリと、あるいはフワリと合わせる――ニュース映画のその場面のために、映画館へ何度足を運んだことか。
 日本のストライカー、釜本邦茂が岡野俊一郎コーチ(現日本協会会長)のアドバイスでこのフェイントを採り入れ、「釜本流」を身につけてシュートへ入る一つの型を作るのは、60年代の話である。
 マシューズの偉大さは、生まれつきの強い体とスピード、ボールコントロールの能力を絶え間ない練習で伸ばし、維持したこと。そして、50歳と5日という驚くべき年齢まで1部リーグ(現プレミアシップ)のプロとしてプレーし、42歳まで代表に選ばれ、そのキャリアの間、一度も警告を受けたことがなかったことだった。
 プレーヤーとしての晩年にもなお、鉛を入れて重くした靴を使用して日常の鍛錬を欠かさなかったが、自分が愛した二つのローカル・クラブ以外ではプレーしなかった。61年には2部で苦闘する古巣、ストーク・シティーに戻り、2800ポンドという当時にしては驚くほど少ない報酬でプレーして、チームを1部に引き上げている。
 そのストークでの65年の引退試合にディステファノ、プスカシュ、マソプスト、ヤシンといった各国のスターたちが集まったのも、彼の人柄ゆえだった。


リーグ優勝がなくFAカップ優勝1回

 96年、ウエンブリー・スタジアムでの欧州選手権開幕の式典に参加したマシューズや後輩のボビー・チャールトンたちを、私は観客とともにスタンディング・オベーションで迎えながら、53年のFAカップ決勝、対ボルトン戦を1−3から4−3にした有名な「マシューズ・ファイナル」の伝説を思い出していた。少しやせた感じだったが、背筋をピンと張った81歳のマシューズの姿は、感動的だった。
 私よりも9歳年長のマシューズの選手生活は、前々号で追悼した高橋ロクさん(16年生まれ)と同様に大戦の影響を受けている。第2次大戦中、プロリーグは縮小されて地域リーグとなり、交通事情などで記録も「ウォータイム・フットボール」として別の扱いになっている。
 マシューズにとっては、24歳から31歳までの最盛期だった。結局彼にはリーグ優勝の経験はなく、FAカップ優勝が1回だけである。
 選手を引退したあとも、彼はプレーの現場を好んでマルタやトロント(カナダ)などで監督を務めたほか、70歳を過ぎてなお、南アフリカやサンフランシスコなどへコーチ行脚した。

 サッカーがまだ金まみれになっていない時代の、大スターが去った。


(週刊サッカーマガジン2000年3月15日号)

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