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大正末期のショートパス(2)

7連勝の御影師範が負けた

 大正7年に大阪で始まった日本フートボール大会(前々号でその誕生のいきさつを紹介)は、主催の大阪毎日新聞社の大々的な報道で、関西でのサッカー熱を高めた。
 第1回大会で参加は8チームだったのが第5回大会(大正11年、1922年)には3府2県から18チームが出場している。このなかで、関西大学や関学高等部といった大学(高等)チームを除く16チームのうち、師範学校が、御影、姫路、奈良、京都、天王寺、池田の6校、中学校が明星、桃山、堺、市岡、大阪工(以上大阪)、神戸一中、神戸二中、関学中等部、甲陽(以上兵庫)、海草(和歌山)の10チームだった。
 その3年後、大会の参加を中等(中学、師範)、高専に分けることになり、中等学校部門は22チームが参加とさらに増えた。次の大正15年の第9回大会(1926年)では全国8地区の予選制を設けて、関東、東海、北陸、京滋奈、阪和、兵庫、中国、朝鮮の各地域の代表が甲子園の本大会で優勝を争う形となり、今の全国高校選手権の基盤ができ上がる。
 こうして参加チームが増え、運営や組織が整うようになった大正期の大会での画期的な“事件”は第8回大会の神戸一中の優勝、それまで7年連続して頂点にあった御影師範を破っての初制覇だった。


東京高等師範の系譜

 明治期の日本サッカーは、体操伝習所(明治11年、1878年創設)――のちの東京高等師範・筑波大――でフットボールが教科の一つとなりさらに東京高等師範となってから、嘉納治五郎校長によるスポーツ奨励、明治29年(1896年)の運動会(体育会)設立と、運動部の誕生――その中にフートボール部もあった――といったステップを踏んで、学校教育の中枢ともいえる東京高等師範の中でしっかりと根付いてゆく。
 坪井玄道教授が海外視察から帰国(明治35年)後は、明治36年に初めて横浜外国人クラブと試合をした。外国人クラブは、すでに横浜と神戸との間で明治21年からインターポート試合を行なっていて、東京高師のこの第1回の挑戦は0−9の大敗だったが、同じ年に金沢の第四高等学校から転任した英国人教師デハビランドによって東京築地の外国人学校やイギリス大使館員たちのクラブとの交流が開け、急速に生徒たちはサッカーを理解し、上達も早まって、明治42年には横浜外国人クラブに勝つまでになった。その蹴球部の卒業生たちが、全国各地で指導するようになって、各地、各校のサッカーの進歩も早まり、単なるボール蹴りから試合を行なうようになった。
 御影師範も、明治29年にすでにフートボールを行なっていた記録はあるものの、校内で本格的に取り上げられ、蹴球部が生まれたのは明治45年、その少し前から高師卒業生による指導があったからとされている。


外国人の先生と外国人クラブ

 この高等師範―師範学校という教育機関によってサッカーの普及、浸透が進むとともに、一方では、外国人教員によって、中学校、高等学校へサッカーが持ち込まれたのも、明治末期から大正初期の普及の姿。
 大正2年創部の神戸一中が御影師範に急テンポで追いついていったのは、岩田久吉部長とともに英語教師アーガルの力も大きい。コーチをしただけでなく高師のデハビランドと同様に外国人クラブとの交流を進めたからである。当時の校舎は生田川の西岸にありKRAC(神戸外国人クラブ)のグラウンド(現在の神戸市役所の本館あたり)に近いのも幸いした。
 第15回卒業(大正3年)で創部時5年生(最上級生)の関口進次は、神戸外国人クラブと上海外国人クラブの試合を見て、FWのウイングからウイングへロングパスが届くのを見て驚いたと言っている。
 第1回日本フートボール大会は創部からわずか5年後だったが、神戸一中は1回戦で堺中に8−0で勝ち準決勝で御影師範に1−0で負けた。当時のGK範多竜平によると、ゴールキックを蹴るのが「レフェリーの笛より早かった」ためにPKを取られ、そのゴールを奪われたという。外国人クラブから教わったルールが主審の解釈とは違っていたらしい。そんな神戸一中に大きな転換期がやってくる。


大正期の日本フットボール大会(予選制以前)

   年    会場  参加       決勝

1)大正7年  豊中  8   御影師範 1−0 明星
2)大正8年  豊中  9   御影師範 5−0 明星
3)大正9年  豊中  10   御影師範 4−1 姫路師範
4)大正10年  豊中  13   御影師範 3−0 姫路師範
5)大正11年  豊中  18   御影師範 3−0 神戸一中
6)大正12年  宝塚  17   御影師範 4−0 姫路師範
7)大正13年  宝塚  18   御影師範 5−1 京都師範
8)大正14年  甲子園 22   神戸一中 3−0 御影師範


(週刊サッカーマガジン2000年3月22日号)

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