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ショートパス開花と天性のストライカー 特別編

昭和10年代の黄金期

 新しい年になって始めたこの連載の9回目も追悼記となる。
 82歳の二宮洋一(にのみや・ひろかず)さん――3月7日、夜に訃報を知らされた。このページのいまのテーマが大正末期のショートパスだったが、二宮さんは、それより少し後の時期、日本のショートパスがベルリン五輪(昭和11年、1936年)で開花してから、太平洋戦争開戦(昭和16年、1941年12月8日)に至るまでの“戦前”サッカー黄金期の頂点にあった慶応のCF――“ベルリン組”の主力となった早大と、それを追い上げた慶応とのサッカーの早慶時代の“花”でもあった。
 170センチそこそこと、今のプレーヤーに比べると小柄だが、ピッチ上では“大きく見える”存在であり“威圧感”さえあった。
 真っすぐに立てた上体、左右にぶらぶらさせながら、巧みに相手をけん制する両腕、高く、軽やかに上がるヒザ――利き足の右での、インサイド、アウトサイド、ヒール、トーと、あらゆるパートを使っての、自在のストレートと変化球。左のインステップの、ややつま先のインにかかる独特の角度の強いシュート、静止の姿勢からの爆発的なダッシュと巧みなステップのターン、そして驚くべきジャンプ・ヘディングと、ストライカーの条件を全て満たしていた。
 昭和15年関東大学リーグ4連覇で学窓を去るこの選手を、時の朝日新聞の天藤明記者は「二宮の前に二宮なく、二宮の後に二宮なし」と称えた。


オットー・ネルツと慶応

 大正6年(1917年)11月22日生まれ、わたしより7歳上の二宮さんが御影師範付属小学校から神戸一中に入ったのが昭和5年(1930年)。この年1月の全国中学選手権(現・全国高校選手権)で神戸一中が2回目の優勝を果たし、ショートパスがこの中学クラブのスタイルに確立されていた。
 3年生のときにも3回目の優勝があり、5年生のときは、後に日本の第一線に立つ好選手が揃っていたのに、全国中学選手権大会が開催時期を冬から夏に変更したために、予選を伴う大会はなく、代わりに行なわれた「全国招待大会」の優勝に止まっている。
 昭和10年、慶応に入ると予科1年からレギュラーとなる。
 大正10年(1921年)に始まった慶応ソッカー部は、東大や早大に比べてスタートが遅れた分だけ、関東大学リーグ(大正13年開始)では不振だったが、昭和7年に初優勝、大正15年以来の東大連続優勝(6回)にピリオドを打ち、早・慶時代の幕開けを告げていた。
 ドイツの名コーチ、オットー・ネルツのショートパス戦法を、文献の翻訳を自らの手で行ない、練習に取り入れた理論家・浜田諭吉(昭和2、3年度主将)や神戸一中でこのやり方を身につけていた選手たちと、後に慶応の主(ぬし)となる松丸貞一たちの努力で、ネルツをバイブルとする慶応のスタイルが生まれていたころでもあった。
 神戸一中で4歳上の右近徳太郎(ベルリン五輪代表)、2歳上の播磨孝太郎らとともに新人・二宮は腕を上げ、やがて昭和12年から15年までの4連覇を記録しただけでなく、昭和11年、12年、14年、15年と第16、17、19、20回の天皇杯に優勝し、朝鮮地方代表(当時は日本の一部だった)やベルリン組を核としていた早稲田WMW(学生とOBの合同チーム)を抑えての日本タイトルを勝ち取った。


ヨハン・クライフのゲームメーク

 ダイレクトパスを基調とする慶応の攻撃は、テンポの早さが特色だけに単調になりかねないのだが、CF二宮に渡ったところで変化が起き、一気に破壊力を加えるのだった。盛期には、ミッドフィールドで受け、組み立て、自ら突破し、シュートへもっていった。
 その姿を頭に焼き付けていたわたしは、74年ワールドカップで、初めてヨハン・クライフを見たとき、彼のゲームメークを二宮さんのイメージと重ね合わせたものだ。
 1940年の東京オリンピックが幻と消え、この人もまた最盛期に欧州、南米を相手にするヒノキ舞台を失った世代の一人。大戦後は37歳まで第一線でプレーするのだが、それについては、この連載の後の機会に譲りたい。
 戦後のブランクを経て、なかなか国際的プレーヤーが現れないころ、なかには日本人はサッカーに向いていないというメディアもあるなかで、わたしがこの競技を見続けてきたのは、二宮洋一を生んだ日本のサッカーが、高いレベルに達するのを疑わなかったからだと言える。
 早大一年生当時の釜本――だれもがその体格とスケールについてだけ語っていたとき、わたしに「釜本はうまい」と二宮さんが言ったことを付記して、追悼を終わらせていただく。


(週刊サッカーマガジン2000年3月29日号)

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