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大正末期のショートパス(3)

 神戸のユニバー記念スタジアムの記者席で、満員の観衆とともに「キリンビバレッジ2000」日本対中国を楽しみました。強行日程で参加した欧州トリオ、中田英寿、名波浩、城彰二にはプロフェッショナルの宿命とはいえ、まことにご苦労さまと感謝したいところです。
 13本のシュートでゴールを奪えなかったのは従来からのことで、これについては「98ワールドカップの旅」でふれましたが、いずれこの連載で取り上げることになるはずです。


関東大震災と巡回コーチ

 前号の「二宮洋一さん追悼編」で1930年代後半、日本の年号では昭和10年代前半に、二宮・慶応がパス攻撃で日本のトップとなったことを紹介した。今回は、それより10年ばかり昔に戻って、日本式パス攻撃の芽が出始めるころの話だ。
 いまの高校選手権大会の前身、日本フートボール大会に第1回(大正7年、1918年)から出場を続けた神戸一中(現・神戸高校)が、御影師範の連続優勝を7でストップし、初めてこの大会のタイトルを奪ったのが、第8回大会(大正14年、1925年)。その1年半前の大正12年にビルマ(現ミャンマー)人、チョウ・デンの指導を受けて急速に技術を伸ばし、短いパスをつなぐ攻撃力をアップさせた成果だった。
 東京蔵前にあった東京高等工業学校に留学していたチョウ・デンの名が、サッカー人に知られるようになったのは、彼が教えた早稲田高等学院(早大の予科)が大正12年の全国高校大会(旧制高校のいわゆるインターハイ)で初優勝してから。
 そのころ、ビルマはインドの属州の一つで、英国の勢力下にあった。写真で見る彼は、スラリと背が高く顔つきはインド・アーリアン系のよう。英国式のスポーツライフを楽しむ青年であったらしい。走り高跳びの練習に、早大グラウンドを訪れたとき、サッカー部を見て(あまりにも幼稚だったので)指導を買って出た。
 この成功で、各学校から指導希望が増えたので、12年8月に「HOW TO PLAY FOOTBALL」という本を書き、これがまた評判になった。そして大正12年9月の関東大震災で高等工業学校の校舎が倒壊し、授業ができなくなった期間を利用して、チョウ・デンの全国行脚が始まる。


インステップ、サイドキック

 神戸一中の部員たちが指導を受けたのは、彼が御影師範を教えた一週間のうちの一日、練習の休みの日に宝塚少女歌劇の見物に出かけた彼を待ち受け、頼み込んで教えてもらったという。範多竜平(はんた・りゅうへい=大正7年卒、慶応、大正14年卒)が宝塚見物を誘ったという話もあるが、この半日のコーチで、基礎のテクニック、それを応用してのパスをつなぐ、いわゆるショートパス戦術などを理解したという。ボールを蹴るのに、インステップ、インサイドのフロントパート、バックパートなどがあり、タックル方法、ヘディングの種類など、それまで先輩の見様見真似だったテクニックを、自分でプレーの見本を示し、説明したチョウ・デンの指導は、干天の慈雨と言えるもの。後方から大きなキックで、両翼を走らせるキック・アンド・ラッシュよりも、短いパスをつなぎ、スルーパスを出してシュートして得点するやり方も学んだ。
 同じ時期に一週間も指導を受けた御影師範が新戦術を消化するよりも、神戸一中の方が早く身につけたのは、それだけにこのやり方がフィジカルな面で劣勢な自分たちに適していると考えたから。さらには、すでに御影師範付属小学校で師範の部員にサッカーを教わり、ボールに馴れた者が多かったこと、また後に日本代表となる高山忠雄(大正11年卒)、西村清(大正13年卒)、若林竹雄(大正14年卒)といった優れた素材が現れ、大正10年ごろから全国で勝てなくても、各種大会では御影師範と互角に戦えるようになったことも見逃せない。
 26回生、北川貞義(大正14年卒、全国大会優勝メンバー)のイラストは、右サイドのパス交換と3人目の突進と、それへのスルーパスが描かれている。それは1965年から日本リーグの初期に4連覇した東洋工業(現・サンフレッチェ広島)が成果を挙げた3人目のスルーパスと同じ形のものだった。
 チョウ・デンの全国巡回指導はこうして神戸で成果を挙げ、やがて昭和5年(1930年)日本代表の極東大会優勝につながる。


(週刊サッカーマガジン2000年4月5日号)

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