賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >謙虚で剛直な明治人 釜本正作さんを思う

謙虚で剛直な明治人 釜本正作さんを思う

 国見高校の圧倒的な優勝から5日後、ひとりの先人が永眠した。釜本正作さん、あの釜本邦茂氏(日本協会常務理事、メキシコ五輪得点王)のお父さんで、95歳だった。長沼健・日本サッカー協会最高顧問を葬儀委員長とする葬儀、告別式が1月19日に千里会舘で行なわれた。
 正作さんには何度かお会いし、ときには長い電話で話を聞かせてもらったこともある。私の手元にある古いメモによると、戦前の京都で警察官をつとめ、昭和13年(1938年)から17年まで兵役についた。ソ連と日本の関東軍が戦ったノモンハン事件にもかかわった。幹部候補生から陸軍中尉まで進み、昭和18年には京都の太秦に新設された三菱重工業京都製作所の青年学枚の教官に就任した。


剣道の経験から息子にアドバイス

 ヨシ工夫人との間に3男2女をもうけたが、邦茂氏はその三男。若いころに剣道に打ち込んだ正作さんは長身で姿勢が良く、ヨシエ夫人もまた背が高かったから、子供たちはみな大柄――。長男の幸和、次男の欣晃(よしあき)はそれぞれ学生時代は、テニスと卓球の選手。長女の美作子さんは運動会の花形というスポーツ一家だった。
 太秦小学校、蜂ケ丘中学校でサッカーを覚え、山城高校の時に全国的に名を知られるようになった邦茂選手が早大に進み、ヤンマーに入って、その素質を伸ばしていく時期に、正作さんは良きアドバイザーであり、コーチでもあった。私には「自分は剣道をとことんやりたいと思いながら、いろいろな事情でやり遂げられなかった。そうした経験から邦茂にはひとつのものに徹底してほしかった」と語っていた。
 早大時代の邦覆挙手に、正作さんはよく手紙を書いた。創意工夫すること、自らを鍛錬すること、絶対というワザを持つことと説いた。
 邦茂選手が反復鍾習によって自分のシュートの型を作り上げてゆくのに、もちろん、優れたコーチたちの指導もあったが、正作さんの感化も大きかったはずだ。
 自分で考え、工夫し、ボールをどこへ置けば一番うまく蹴れるか。相手との間合い、仕掛けのタイミング……プレーヤー・釜本の一つひとつの所作に、正作さんはしっかりと眼を注いでいた。アマチュアの選手であっても、いまのプロにも増して、サッカーに打ち込んできた邦茂選手を支えた父親は、プレーヤーから監督となり、参議院議員となり、日本協会の要職に就いた息子にとっても、人生の師表であった。
 謙虚で質実で剛直であった明治人が、またひとり去った。


(週刊サッカーマガジン2004年2月10日号)

↑ このページの先頭に戻る