賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >昭和初期のレベルアップ(2)
昭和初期のレベルアップ(2)
ニュージーランド五輪代表を相手に日本の五輪代表が4−0で快勝した。MF中村俊輔のFKをはじめ、素晴らしい攻撃があったけれど、それを評価されながらも、テレビ解説でも、新聞評でも“大賛辞”とならなかったのは、相手の力が低かったからだろう。
うれしかったのは、テレビや紙評のなかに、「スピード一本で、緩急の変化がない」「両翼のスペースの使い方が少ない」といった言葉がみられたことだ。“緩と急”という理念やプレーが当たり前の欧州、南米に比べると、日本では指導者や選手が、“早さ”を尊重しても、それを生かす"緩"に目がいかないことが多いのだが、こういう話が観戦の合い間に出てくることは、選手の技術進歩とともに、日本サッカー界全体のレベルアップと言えるだろう。
さて、連載は昭和初期の日本サッカーの画期的な成功、第9回極東大会についてである。
旧制高校とスポーツ
大正末期のチョウ・デンの指導による各地での技術向上、上級学校の試合の増加、旧制インターハイ、東京カレッジリーグ(関東大学リーグ)、関西学生リーグの創設などがあって、大学のレベルが急速に上昇した。なかでも、旧制高校で3年間、みっちりとサッカーに打ち込んだ素材の集まった東京帝国大学(東大)は、大正14年入学の竹腰重丸を中心に、強力なチームをつくり、大正15年(1926年)に初優勝し、昭和6年(1931年)まで6年間優勝を続けた。
現在の大学の事情からみると、不思議な現象のようだが、当時の旧制高校の気風「自由な空気のなかで、何かに熱中する」は、学生を得意な勉学やスポーツに傾倒させていた。
中学校(旧制)のときには、進学のため運動部の活動はしなかった者も、自分の望んだ高等学校に入ってからスポーツに取り組む者もあった。サッカーが校内でも盛んだった神戸一中の卒業生のなかには、旧制高校へ入ってからサッカー部に入り、東大や京大でも選手生活を続けた者も少なくない。
私自身、神戸商大予科(現・神戸大)に進んで、旧制高校を相手に試合をしたとき、中学校のときにサッカー部にいなかった“素人”たちが、2〜3年の間に、見違えるほどたくましくなっているのに、感心したものだった。
早稲田、慶応、関学
ついでながら、早稲田や慶応、といった私立大には予科(教養課程)があって、この3年と学部3年間、合わせて6年間の学業だったから、東大とはまた別の長期的なチームづくりも可能ではあった。しかし、昭和初期は、まず全国各地の旧制中学から旧制高校に入り、それぞれ(まだ学校の伝統もなく)独自に工夫してインターハイを目指してきた選手たちが集まった東大がやや有利で、そこにまた竹腰という“求心力”があったことが、リーグを連覇し日本のレベルアップをリードすることにつながったと言える。
関西の大学では、大正12年に3校で始まったリーグが14年には4校になり、15年には7校と増え、昭和4年には1部6校の形が整った。その中で、大正5年創部の関西学院(関学)が、大正13年から早稲田との定期戦、昭和2年の上海遠征などの積極策で、大正15年のリーグ初優勝以来、関西学生界の顔となった。昭和4年の第1回東西大学リーグ1位対抗(大学王座決定)では、東大に敗れはしたが、2−3の好試合、西に関学ありと強く印象づけた。
こうした、昭和に入っての急速な大学レベルの向上は、昭和2年(1927年)上海での極東大会で1勝を生む(前号参照)。このときの代表チームは、代表決定戦に勝った早大WMWに、東大の竹腰ら4人を補強したものだった。
中国には完敗(1−5)したが、フィリピンには2−1で勝った。国際試合初勝利の決勝ゴールは竹腰。その前の大正14年大会(マニラ)でも大阪クラブの補強メンバーで、2回目の参加だった。そうした経験から、今度の代表は、単独チームへの補強でなく、東西の大学から選手を選ぶ――協会初の選抜チームをつくることにし、日本協会の準備委員会は別記19人を選んだ。東大12、早稲田3、関学2、慶応、京大各1。40日間の強化合宿を経て、ホームの神宮競技場(現・国立)で中国、フィリピンを迎えようというのだった。
第9回極東大会代表候補
※○は試合出場メンバー
名前 対比 対中
FW 春山泰雄 (東大) ○ ○
若林竹雄 (東大) ○ ○
手島志郎 (東大) ○ ○
篠島秀雄 (東大) ○ ○
高山忠雄 (東大) ○ ○
市橋時三 (慶応大)
HB 本田長康 (早大) ○ ○
竹腰重丸 (東大) ○ ○
野沢正雄 (東大) ○ ○
西村 清 (京大)
岸山義夫 (東大)
FB 竹内悌三 (東大) ○ ○
井出多米夫(早大)
後藤靱雄 (関学大) ○ ○
近藤台五郎(東大)
大町 篤 (東大)
杉村正三郎(早大)
GK 斉藤才三 (関学大) ○ ○
安部鵬二 (東大)
(週刊サッカーマガジン2000年4月19日号)