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昭和初期のレベルアップ(3)

まずフィリピンに大勝

 日本サッカー界が初めて選抜チームをつくって迎えた昭和5年の極東大会は、5月24日から31日までの8日間にわたって、東京の明治神宮外苑の各競技場と三年町庭球コートで行なわれた。大会の正式名称は「第9回極東選手権競技大会」――競技種目は陸上競技の個人と総合、野球、テニス、サッカー(当時は蹴球)バレーボール(排球)バスケットボール(籠球)水上競技の8種目。参加国はこれまでの日本、中華民国、フィリピンと新しく加わったインド。
 サッカーは日、中、比の3ヶ国のリーグで、日本はまず5月27日にフィリピンと対戦した。
 開始直前に猛烈な雨に見舞われ、キックオフを20分遅らせたこの試合は、8分までにフィリピンが2−0とリードしたが、日本は10分に若林が、まず1ゴールを返してから追い上げ逆転し、前半で5−2、後半も2得点を加えて7−2で大勝。フィリピンは2年前の上海大会で2−1で勝った経験があり、今回は強い雨のために滑りやすくなったグラウンドコンディションと、日本のチームワークの良さが、点差を大きくした。
 3ヶ国リーグの第2戦は5月27日のフィリピン対中華民国。勝負は前半に、中華が3−0として後半も2得点を加え、5−0の大差となった。フィリピンも、攻撃回数は中華に劣らないのに、シュートが対日本のときと同じように決まらず、またときに好シュートはあっても、中華のGK周の巧みな守りを崩すことはできなかった。


パスワークと個人の強さ

 1勝同士の対決、日本―中華民国は5月29日、午後3時、中華のキックオフで開始。日本のショートパス、中華のロングパスと対照的なスタイルで、20分までに日本は3度の決定機を生かせなかったが、23分に中華の右ウイング曹のドリブルを日本の左FB竹内が奪って、すぐ前へ送り左ウイング春山が中央にパス、手島のシュートで先制ゴール。しかし中華も39分に、日本の右サイドからの攻めを防いで、CH(センターハーフ)の黄からRI(ライトインナー)の孫、さらにCFの載へとわたって、載が同点ゴール。この場面を朝日新聞の山田午郎記者は「LFB(レフトフルバック)の竹内はタックルを試みたが、2度目にはじき飛ばされて転倒したスキに、載はゴール1メートル前からプッシュ。GK斉藤もこうなっては妙技を奪う余地はない」と、中華選手の個人的な強さを記している。
 後半に入っても、互いの好機はそれぞれのDFの頑張りで防ぎ、互角の形勢が続いたあと、11分に日本は篠島―高山とつなぎ、高山の強シュートをGK周はいったんセーブしたが、篠島と手島がこのボールに突進して2点目。しかし、中華は14分に右ウイングの陳(光)が蹴ったロングボールが、飛び出したGK斉藤の背後にバウンドしたところをCF載がダッシュして体に当てて2−2。
 21分、日本はPKのチャンス。これは竹腰からのパスを受けた春山が、エリア内に入ったとき、相手DFが背後からチャージした反則。しかし、シュートに定評あるCF手島がこれを左上に外してしまった。
 日本は24分にも、右CKから春山の強蹴がバーに当たる惜しい場面があり、28分にHB本田のロブからの波状攻撃で、高山のヘディングの後のリバウンドを篠島が決めて3度目のリード(3−2)。しかし、中華も34分にCF載がまたまた同点ゴール。この後、両チーム2度ずつチャンスがあったが、追加ゴールは生まれず、タイムアップとなった。
 両国が1勝1分けの同勝率、現在のように得失点差、さらには得点差といったゴール数によって順位を決める大会規則はなく、優勝決定のプレーオフを主張した日本に対して中華側が拒否したため、サッカー競技としての選手権(チャンピオンシップ)は、次回までの保留となった。
 この大会での優勝を足場に、1932年ロサンゼルス・オリンピックへの代表派遣をもくろんでいたJFA(日本蹴球協会)は、「長蛇を逸した」感はあったが、目標としてきた中華民国(中国)代表チームに、日本代表が肩を並べることになって、自分たちの努力が、間違っていなかったことを確信した。


全力を出し切って

 チームのキャプテン竹腰重丸――単にグラウンドでのリーダーだけでなく、代表の選考から合宿練習の計画や実行の責任者でもあったこの人は、この対中華戦の後、神宮競技場(現・国立)から宿舎の日本青年館まで歩くことができず、友人の田辺五兵衛に背負われて帰った。
 「途中で、かつぎ直そうとしたら、この人はずり落ちてシリモチをついた。全力を使い果たしていたのだ」と田辺五兵衛は述べている。
この大会より約1ヶ月遅れて、第1回ワールドカップが南米ウルグアイで開催された。世界のサッカーの記念すべき1930年は、日本サッカーにも歴史的な年だった。


(週刊サッカーマガジン2000年4月26日号)

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