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昭和初期のレベルアップ(4)

山田午郎記者の感慨

「わが蹴球チームが大正6年の芝浦大会に、初めて参加してから13年、郷土に比、華の両軍を迎えること、ここに三度、何ごとも三度目のたとえに洩れず、見事にフィリピンを一蹴し、強豪・中華民国と引分けて、たとえ、その選手権の決定を見なかったとはいえ、やがて日本の蹴球界が極東の覇を成すべき端緒を立派につかんだ。
もとより、この小成に安んずべきではないが、既往13年の長い長い忍苦の斯界を思うとき、萬感交々、そぞろ目がしらの熱くなるのを覚ゆるのも、ひとり筆者のみではあるまい」(原文ママ)
 朝日新聞が発行していたアサヒスポーツ(週刊)の極東選手権大会特別号で、日本の2試合の模様を伝えた山田午郎(やまだ・ごろう)記者の一節――サッカー記者の草分けで、自らも東京蹴球団のキャプテンとして、第1回の天皇杯チャンピオンになり、大正、昭和初期のリーダーのこの人――。
 記者であり、フットボーラーであった身には、サッカーが極東大会で「出ると負け」を続けていたとき、新聞社のなかでも、体協のなかでも、肩身の狭い思いをしたはず。感慨もひとしおだったろう。この引き分け、日・中同率1位の成績は、日本のスポーツ人、体協関係者の間での評価を得たらしい。
 この3年前の第8回大会(上海)で、日本選手団の役員、選手たちが中国の人たちのサッカー熱を目の当たりにし、海外での人気の高さを肌で感じたからでもあったという。
それは、ちょうど東京五輪(1964年、昭和39年)の1次リーグでの対アルゼンチンの勝利(大会での日本唯一の勝ち)をメディアが大きく、好意的に取り上げたのにも似ている。このときは、オリンピック前、NHKをはじめ各新聞社が世界のスポーツ事情報道にと、海外へ送った記者たちが、世界でのサッカーを実際に自分の目で見て帰ったのが、伏線であったようだ。


昭和5年組の情熱が少年へ

 私のクロニクル(年代記)でいけば、昭和5年はまだ幼稚園のころ、雲中小学校に入る前年のこと、東京でのこのサッカーの“大事件”について知るはずはない。
ただし、のちに東京五輪が終わったあとでの、神戸での小宴のとき、極東大会への先輩たちの思い入れを知ることになる。
 集まったのは、玉井操、田辺五兵衛、杉村正三郎、赤川(旧姓・西村)清、大橋真平、空野章、加藤正信の各氏。乾杯のときの田辺さんの言葉。「東京オリンピックでの対アルゼンチン1勝は、昭和5年の極東大会での対中国戦引き分けを思い出す快挙だった。第二次世界大戦以来、長い間停滞してきた日本サッカーが、新しい興隆期を迎えるまたとないチャンスだと思う。チョウ・デンの指導からわずか7年で中国に追いついたわれわれは、独自のスタイルをつくりだし、そして歩みを止めることなく、ベルリン(1936年)につなげた。昭和39年のいまも、次のステップを考えなければならない」
 アルゼンチン戦の逆転勝ちを“ベルリン”に結び付けても、極東大会にまでは及ばなかった私は、田辺さんたち明治生まれの世代が昭和5年にかけた情熱をあらためて知った。ベルリン五輪での勝利は、戦争のため次へのつながりが薄れるのだが、昭和5年は昭和11年へと歩み続けたのだから――。
 先輩たちの熱意に引き込まれて、私は「技術を高めるためには少年への浸透、小学生への普及から」と、つい言ってしまう。
 加藤正信ドクターの推進力が、少年サッカースクール開設に傾斜するのは、この夜から。今日の隆盛の基盤の一つとなった少年サッカーは、昭和5年と昭和39年の交錯から生まれることになる。
 年表で日本協会設立前後から、昭和5年への歩みを再録しておこう。


昭和5年までの各種大会

1917年 第3回極東大会初参加
1918年 関東・中京・関西の各地で大会が始まる(関西での大会が大正15年の第8回大会から予選制の全国中学選手権となり、現・全国高校選手権大会に)
1921年 大日本蹴球協会設立◇日本選手権開始◇第5回極東大会参加
1923年 チョー・ディンの全国巡回コーチ◇旧制インターハイ(全国高校大会)が東大の主催でスタート◇第6回極東大会参加
1924年 関東・関西で各大学リーグがスタート
1925年 第7回極東大会出場(初参加以来未勝利)◇日本フットボール大会で神戸一中が御影師範に勝つ
1926年 関東大学リーグで東大が初優勝
1927年 第8回極東大会(上海)でフィリピンに勝つ(対外試合初勝利)◇関西学院大の上海遠征
1928年 東大が上海に遠征
1930年 第10回極東大会でフィリピンに勝ち、中華民国と引き分け


(週刊サッカーマガジン2000年5月3日号)

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