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昭和初期のレベルアップ(5)

 1930年(昭和5年)は、第1回ワールドカップがウルグアイで開催された、世界サッカー史で記念すべき年。日本では、第9回極東大会で中国と引き分け、アジアのトップに追いついたことを示した画期的な年だったが、この年を語るときに、1月に行なわれた全国中等学校蹴球選手権(現・高校選手権)を見逃すことはできまい。


野球場でのサッカー大会

 大正7年に日本フートボール大会の名で、大阪毎日新聞社によって始められた大会は、大正15年から予選制をとり、8地区の代表が本大会をノックアウトシステムで戦っていった。
 それまで豊中、宝塚と移ってきた会場は、この年から甲子園球場となる。大正13年に竣工した巨大な野球場は外野を広くとって、サッカーやラグビーにも使用できる設計となっていて、大正14年からここを会場としていた。
 予選の8地区は、関東、東海、北陸、京津奈(京都、滋賀、奈良)、阪和(大阪、和歌山)、兵庫、中国、朝鮮――全国一率ではなく、開催地に近い近畿に3チームの枠を置いたところは面白いが、何より当時、日本の一部であった朝鮮半島から代表チームが送られてくるのは、中等サッカーとしては画期的だった。もっとも朝鮮代表の培材高普は1回戦で御影師範に0−3で敗れ、その御影が京都師範、広島一中を破って優勝した。
 次の第10回大会は、翌年に行なわれるところを、大正15年12月25日に大正天皇が亡くなられたので喪に服する(御諒闇=ごりょうあんと言った)ため、大会は中止。昭和3年に持ち越された。


朝鮮代表の初優勝

 その昭和3年の大会で、朝鮮地方の代表の崇実が、京都師範、東京高師附属中学、広島一中を次々に破って初優勝を果たした。スコアは11−0、6−0、6−1と、圧倒的なものだった。
 この崇実に対抗できるはずの御影師範は、1回戦で高師附属中学に4−5で敗れている。
御影師範は、その次の昭和4年第11回大会で、タイトルを奪い返す。琴井谷、大橋、空野といった優れたFWを持ったこのチームは、1回戦で滋賀師範を11−0、準決勝で青山師範(関東)を4−2で破った。そして決勝では、朝鮮代表の平壌高普と戦い、延長の末、6−5で勝っている。


500メートルの競技場

 朝鮮代表の参加で一気に充実した大会は、昭和5年に新築の甲子園南運動場に会場を移し、予選地区も新しく北海道と九州を加えて10代表で争うことにした。
 甲子園球場を建設した阪神電鉄は、もともと野球場建設のときから、枝川と申川の跡地に、スポーツリクリエーションセンターの構想を持っていて、野球場に次いで、陸上競技とサッカー、ラグビー併用のスタジアムを建設したのだった。
 すでに東京では、神宮外苑競技場として野球場や陸上競技場(極東選手権もここで開催)、プールなどのスポーツ施設群が整っていたから、関西の企業人は、それ以上のものをと考えたようだ。ラグビーのインゴールのスペースも考えて、トラックは1周500メートル、サッカー・グラウンドとしても幅75メートル、長さ119メートル取れるゆったりとした大きさ、そして跳躍競技に使用される砂場はトラックとスタンドの間において、球技の邪魔にならないように設計された。
 甲子園はこの後、野球場と南運動場の間の広大な土地に、100面のテニスコート、スタンド付きのテニスのメーンコート、水泳プールなどを合わせた大スポーツセンターとなった(南運動場は大戦中に海軍が使用したため、大戦後は米軍に接収されて消滅、テニスコートは宅地になった)。
 せっかくの新競技場での大会は、朝鮮代表の不参加で9代表となったが、兵庫で御影師範を倒した神戸一中が、熊本第二師範、愛知第一師範、市岡中学を破って決勝に進んだ。そして富山師範、東京高師附属中を破った広島師範と対戦して、3−0で勝ち優勝した。
このときのメンバーの中に、右近徳太郎(ベルリン五輪代表)、大谷一二(昭和9年極東大会代表)、加藤正信(神戸FC創設者)がいた。市岡中学には、川本泰三(ベルリン五輪代表)、京都師範には藤田静夫(第6代日本協会会長)の名があった。
 ビルマ(現・ミャンマー)人チョウ・デンの教えを受けた直弟子たち、鈴木重義や竹腰重丸と仲間たち、ひとにぎりの大学生と若いOBのひたむきな努力による国際的成果とともに、東京高師とその卒業生による地方への普及と、師範学校とその附属小学校を中心とする少年への働きかけにより、長い年月の末、日本のトップチームを担う次の世代が、着実に育ち始めていた。


(週刊サッカーマガジン2000年5月10日号)

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