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世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)

 日本サッカーが現代の“かたち”をつくるまで、そのときどきに大きな影響を及ぼし、“いま”につなげた人たちを紹介するこの連載(2000年4月号から)は、釜本邦茂(2002年1〜4月号)の後を受けて、今回は杉山隆一――。釜本邦茂との絶妙のペア・プレーで、メキシコ五輪の栄光獲得の大きな力となった彼は、また、選手を引退した後もヤマハ発動機の監督となって、静岡県リーグ2部チームを日本リーグ1部に押し上げ、今日のジュビロ磐田の基礎を築いたことでも知られている。


40年世代のリーダー

 1941年7月4日生まれの杉山隆一は、いわゆる40年世代の旗手だった。日本サッカーがどん底の状態から、1964年の東京、1968年のメキシコと2度のオリンピックをステップに発展に向かう中で、彼らより10歳年長の長沼健(1930年生)岡野俊一郎(1931年生)らを監督、コーチとして、実際にピッチの上で中心となって戦ったのが、宮本輝紀、片山洋、上久雄、継谷昌三、小城得達、森孝慈、富沢清司、釜本邦茂、山口芳忠、松本育夫、桑原楽之、それにGKの横山謙三、浜崎昌弘といった1940〜44年、つまり40年代前半に生まれたグループであり、その中で杉山は宮本(1940年12月26日生)とともに、最も早くから日本代表に加わったリーダーであった。アマチュア選手としてオリンピックという世界の舞台に立ち向かった彼らの世代は、選手生活の後も指導的な立場に立ったが、ここでも杉山は静岡県磐田市に本拠を置くヤマハ発動機のサッカー部の監督となって、同県の2部リーグからトップの日本リーグにまでチームを引き上げ、今日のJリーグの強チーム、ジュビロ磐田の基礎を築いたのだった。今年61歳の彼は会社から去ることになるが、ピッチの上に描いたそのサッカー人生は、日本サッカーの歩みそのものといえる。


第1回アジアユースでの突破とシュート

 清水に杉山という足の速い選手がいる、と知られるようになったのは、1958年秋の富山国体だった。このころ、国体サッカー高校の部は単独の学校対抗で、静岡県の代表となった清水東高が初優勝した。決勝の雨中での泥んこのグラウンドで、宮本輝紀の山陽高との延長戦のすえ、杉山は自らの突破とシュートで決勝点を挙げたが、この大会での彼の活躍はサッカー関係者に強く印象づけた。
 その翌年、1959年4月に第1回アジアユース大会がマレーシアのクアラルンプールで開催され、日本から高校選抜チームが派遣されることになった。最終選考会は1月の高校選手権のときに開かれ、大会の優秀選手が選抜チームに選ばれたが、この大会には出場できなかった清水東高の杉山と山陽高の宮本の両選手は、国体での実績から異論なく推薦された。
 大会の参加資格は20歳以下となっていたが、日本が高校選抜チーム(その年の4月卒業、つまり大会中は大学生、社会人になっている者も含む)としたのは、1歳の年齢差のハンディはあっても、高校生に目標を持たせたいと考えたからだった。
 高橋英辰監督と役員3、選手18人は4月13日に羽田を出発、香港経由で15日にクアラルンプール着、18日からの試合に臨んだ。
 大会は26日までの9日間、まず抽選で組分けのための試合を行ない、勝者をA、敗者をBのグループに分け、Aを上位、Bは下位リーグとした。
 日本はシンガポールとの組分け試合に4−0で勝ってA組に入り、ここで韓国、マレーシア、香港と戦って1勝2敗で結局3位となった。
 杉山は4試合に左ウイング、あるいは左インサイドで出場し、得意のドリブル突破でチャンスをつくった。シンガポール戦ではチーム全体の調子を盛り上げ、桑田隆幸のクリーンシュートの1点目に続いて、杉山がドリブルシュートで2点目を挙げて、チームの勝利を確実なものにした。
 この日の日本の試合ぶりは、見ていたわれわれも驚くほどだったが、マレーシア側も驚いたようで、Aグループの日本の組合せは、21日対韓国、22日対マレーシア、24日対香港とハードなものとなった。
 第2戦の対韓国は、いきなり3点を奪われて劣勢に立ち、その後、杉山と桑田が1点ずつ返して、2−3と迫ったがそこまでだった。翌日の対マレーシアは連戦の疲れで動きが鈍く、0−6の大敗となったが、最終戦は中1日の休息で回復し、香港を6−2で破った。この試合でも杉山は3点目をヘディングで決め、その後、ウイングからCFのポジションに代わって4点目を突破からのシュートで演出(リバウンドを田村が決める)5点目をドリブルシュートで奪っている。
 その前の年、日本での第3回アジア大会で代表チームが1次リーグで敗退し、どん底状態にあった日本サッカー界にとって、高校選抜チームのアジアでの3位は、まさに暗闇の中の希望の明かり。その若いチームの攻撃をリードし、勝利を切り開く杉山の突破力とシュート力に大きな期待がかかるのだった。


エースとして迎えた東京五輪

「父親は体が弱かった。2人の姉も、妹2人も特に優れていたというわけでもない。小学校のときは50人走って30番目くらいで、自分は速いとは思っていなかった。中学校のサッカー部に入ると、走れ走れで、毎日、長い距離を走らされていた」と本人は言うが、スタートして3、4歩で急激に加速する杉山のスピードは目を見張るものがあった。
 清水東高ではインサイドFW、いまでいう攻撃的MFの役目だった。第1回ユースでの左ウイングの起用は、一つには浦和西高のウイングプレーヤーの田村公一が慶応大の入学手続きのために、マレーシアへの到着が遅れたことにもある。アジアではボールテクニックが低かった日本のユースとしては、ピッチを広く使って攻めたい。そのためには、両翼にドリブルのできる選手をという戦略。このため利き足は右だが、左も蹴り、スピードのある杉山がアウトサイドへ回ったのだった。
 後に日本代表のこのポジションは、杉山というイメージが定着してゆくのだが……。
 3度のユースを経験し、高校生ながら日本代表候補に加わった杉山には、東京五輪の強化に招かれたデットマール・クラマーの目が注がれる。
 チーム全体のレベルアップを仕事としながら、その基盤である個人技術についても直接指導したクラマーは、杉山にはそのスピードを生かすためのボールの受け方や、クロスの精度を上げるための特別練習を課していた。
 1964年の東京五輪、明治大学の学生だった杉山はメルボリン五輪(1956年)からのベテラン、八重樫茂生(1933年生)や社会人の川淵三郎(1936年生)鎌田光夫(1937年生)宮本征勝(1938年生)渡辺正(1936年生)鈴木良三(1939年生)保坂司(1937年生)たち30年世代を助け、40年組とともに強化の成果を見せた。
 第1戦の対アルゼンチン逆転勝利は駒沢競技場を埋めた2万人の全国のサッカー人を喜ばせたが、0−1からの同点ゴールは八重樫からのパスを受けた杉山のドリブルシュート、ペナルティーエリア左角へ切れ込んでの右足は、17歳でシンガポールから奪った彼の得意の形だった。アルゼンチンが2点目を取り、川淵のヘディングで2−2、日本は釜本の左からのクロスを右の川淵がプッシュし、相手GKが弾いたのを小城が決めて逆転した。
 第2戦の対ガーナは、日本がリードする有利な展開となりながら、ここから追い付かれて1−1、後半は再び2−1としながら、疲れから動きが急に鈍って2ゴールを奪われてしまった。
 悔いの残る試合だったが、ここでも杉山が1点目を決め、2点目をアシストし、日本の得点すべてに絡んだ。23歳の彼は、日本のエースだった。
 1勝1敗で、この組の2位となった日本は準々決勝でチェコと当たる。四つに組んだ好試合は、時間とともに力の差が現れ0−4に終わり、大阪で行なわれた5、6位決定戦も1回戦でユーゴスラビアに完敗した。
 東京五輪を足がかりに浮上したいと願う日本サッカーは、そのきっかけをつかみはしたが、もう一段上に上るには40年世代の充実がなお必要だった。そのために、彼らと杉山たちにはさらに4年の努力が必要だった。


杉山隆一・略歴1
1941年(昭和16年)7月4日、静岡県清水市に生まれる。袖師中1年からサッカー部に入り、清水東高へ。
1958年(昭和33年)高1のとき、秋の富山国体に出場。決勝で山陽高を破って清水東高が初優勝、杉山は決勝ゴールで有名に。
1959年(昭和34年)4月、第1回アジアユース大会(マレーシア・クアラルンプール)の日本代表として出場、3位に。
            60年の第2回(マレーシア・クアラルンプール)61年の第3回(タイ・バンコク)にも出場。
1961年(昭和36年)5月、対マレーシア戦で交代出場、19歳で初めてAマッチに出場。
1962年(昭和37年)4月、明治大に進学。
            8月の第4回アジア大会、9月のムルデカ大会(マレーシア)でもプレーし、日本代表のレギュラーに定着。
1964年(昭和39年)10月、東京五輪日本代表(4試合2得点)ベスト8。
            秋の関東大学リーグで明治大が初優勝。
1966年(昭和41年)4月、三菱重工に入社、2年目の日本サッカーリーグ(JSL)の看板プレーヤーとなる。
1967年(昭和42年)10月、メキシコ五輪アジア第1グループ予選で日本が1位となり出場権獲得。
1968年(昭和43年)10月、メキシコ五輪で日本代表は3位、銅メダル。日本の9得点(6試合)のうち杉山は5アシスト。
1969年(昭和44年)三菱がJSLで初優勝。
1972年(昭和47年)天皇杯元日決勝で三菱がヤンマーを破って初優勝。
1973年(昭和48年)JSLで三菱が2度目の優勝。
1974年(昭和49年)天皇杯元日決勝で三菱が日立を破って2冠となり、杉山の選手引退に花を添えた。
            杉山の日本リーグ出場は8シーズン、115試合(得点40、アシスト45)。


★SOCCER COLUMN

ナイフ、フォークの使い方を実習した第1回ユース
 1959年、マレーシアのクアラルンプールで行なわれた第1回アジアユースは、AFC(アジアサッカー連盟)がアジアのレベルアップのために創設した大会。
 第20回大会まで毎年続けられ、1980年(昭和55年)の第22回からはワールドユースのアジア予選を兼ねて隔年開催となっているなっている。
 1950〜60年代の日本サッカーにとっては、高校生年齢のプレーヤーに励みを与える格好の大会だった。
 杉山隆一は第1回大会から第3回まで連続出場した。第1回のチームメートには宮本輝紀、継谷昌三、第2回には松本育夫、第3回には横山謙三、小城得達、桑原楽之たち――のちに東京、メキシコの両五輪で、彼とともに戦う仲間がいた。
 第1回当時は高校生チームの海外遠征は日本のスポーツ界初めてで、正式のレセプションに備えて、選手たちはナイフ、フォークの使い方を知るために、レストランでフルコースの実習までした。

得失点差で日本が代表に メキシコ五輪・アジア予選
メキシコ五輪アジア地区第1グループ予選(東京・国立、9月27日〜10月10日)
※27日 日本   15−0 フィリピン
※28日 レバノン 1−1 ベトナム
      韓国   4−2 台湾
※30日 日本   4−0 台湾
※1日 ベトナム 10−0 フィリピン
     韓国   2−0 レバノン
※3日 台湾   7−2 フィリピン
     日本   3−1 レバノン
※4日 韓国   3−0 ベトナム
※6日 レバノン 11−1 フィリピン
※7日 ベトナム 3−0 台湾
     日本   3−3 韓国
※9日 レバノン 5−2 台湾
      韓国   5−0 フィリピン
※10日 日本   1−0 ベトナム

1)日本・4勝1分け(得点26、失点4、得失点差22)
2)韓国・4勝1分(得点17、失点5、得失点差12)
3)レバノン・2勝1分け2敗(得点18、失点9、得失点差9)
4)ベトナム・2勝1分け2敗(得点14、失点5、得失点差9)
5)台湾・1勝4敗(得点11、失点18)
6)フィリピン・5敗(得点3、失点48)


(月刊グラン2002年5月号 No.98)

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