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世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(下)

試合の翌日から練習

 1964年の東京オリンピックの1次リーグでアルゼンチンを破り、準々決勝でチェコに完敗(チェコは銀メダル)した日本代表は、5、6位決定戦の大阪トーナメント(1回戦でユーゴスラビアに負け)から東京の選手村に戻ると、次の日から練習を始めた。「試合終了のホイッスルは次の試合への準備の合図である」というデットマール・クラマーの教えどおり、彼らは4年後のメキシコオリンピックを目指してスタートしたのだった。監督の長沼健とコーチの岡野俊一郎にとっては、次の年に初めての全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)をスタートさせるという仕事もあった。
 このJSLは92年まで日本のトップリーグとして運営され、93年からプロフェッショナルのJリーグへと変わるのだが、当初はアマチュアの立場を守りつつ、各チームと各選手の技術、体力、戦術のレベルアップを計ることと、トップチームの対戦による有料試合でサッカーの普及を計るのが大きな目的だった。


明大から三菱重工へ

 1966年、2年目のJSLに杉山隆一が登場する。明大を卒業して三菱重工に入った彼は、リーグ開幕前からトップスターだった。
 64年秋の関東大学リーグで杉山は足の故障を抱えながら、明大を5勝2分けで初優勝に導いた。彼の明大と釜本の早大の対決は、開始直前に駒沢競技場に駆け付けたファンの多さに切符の対応が遅れて、キックオフ時間をずらせたほどだった。翌年の早明戦にも1万6千人と学生リーグ最高の観客を集めていた。その学生時代のライバルは、67年にヤンマーディーゼルに入り、三菱対ヤンマーはJSLの人気カードとなる。
 大学リーグでもJSLでも、常にライバルとして張り合う2人だが、日本代表では重要な得点源となるパートナーだった。
 66年12月にタイ・バンコクで開催された第5回アジア大会で日本は3位となる。アジアで初のタイトルをとの狙いは、12月のバンコクの予想外の暑さと、その暑熱の中での10日間に7試合という超過密スケジュールに、運動量の多い日本は体力を消耗した。
 大会を視察したFIFA(国際サッカー連盟)のサー・スタンレー・ラウス会長も「過酷なスケジュールでなければ、日本の優勝は間違いないところ。東京オリンピック以後の日本の進歩に驚いた」と語ったが、その攻撃をリードしたのが杉山と釜本だった。
 この大会で杉山は左サイドの攻撃で多くのチャンスを生み出したが、第2戦の強敵・イラン(3−1)との試合では、イランのGKがたたき返したボールをダイレクトシュートで決めるなど、重要な試合でのゴールも決めた。
 杉山の得点は自分のドリブル突破からのシュートと、このイラン戦のようにGKがいったん防いだボールや、あるいは相手のパスを奪ってから――といった独特のカンから生まれたものも多い。66年、JSLのデビュー戦の対日立で、彼はチームの決勝ゴールを決めたが、これも仲間のシュートを相手のGKがたたき返したのを、20メートルを超える距離からボレーシュートして決めたものだった。


左肩脱臼の日韓戦

 1967年秋、メキシコオリンピック・アジア第1地域予選が東京・国立競技場で開催され、9月27日から10月10日の2週間に日本、フィリピン、台湾、レバノン、韓国、南ベトナムの6ヶ国がリーグ戦で代表を決めた。
 日本はまずフィリピンに15−0で大勝、台湾に4−0、レバノンに3−1で勝って、10月7日、同じ3勝の韓国と対戦した。
 降雨の中の日韓対決は、まず日本が宮本輝紀のゴールで先制、杉山が2点目を決めて2−0とした。杉山はこの4日前のレバノン戦で相手DFのタックルで転倒したときに左肩を脱臼していて、この日は麻酔を打っての出場で、このゴールのときにも相手に絡まれて転倒した。彼のスピードを止めようとする相手DFから、手ひどいタックルを受けることが多い。ケガに強いことで知られている杉山であっても、不自由な左手を抱えてのプレーは痛々しかった。
 ただし、前半は日本の早いテンポのパスがつながって、ほとんど一方的なかたちで、終了直前に右からゴール前を通ったボールに走り込んだ八重樫が合わせておれば、大勢は決まったともいえるほどだった。イレギュラーバウンドのボールが八重樫の足を越えたために、結局は2−0のまま。
 後半に韓国がロングボール、運動量と激しい当たりで勢いを盛り返す。雨のために悪くなったグラウンドは、日本のパスワークの威力を減じて、彼らに味方する。2−2のあと、釜本のシュートで3−2と勝ち越したが、その2分後にまた奪われて3−3の引き分けとなった。
 これで日韓ともに3勝1分け、日本は総得点25、失点4、韓国は12得点、失点5。日本が最終戦の南ベトナムに勝ち、韓国もフィリピンに勝てば、得失点差で決まる。
 10月9日の韓国対フィリピンは結局5−0だった。フィリピンから「20点取る」と韓国側が言ったのに対して、フィリピンが反骨精神を発揮し、全員守備の態勢を取ったのだった。
 これで日本は10月10日の試合で、南ベトナムに“勝てばいい”ことになった。
 ところが最終戦の国立競技場は、南ベトナムの厚い守りに日本はチャンスをつくれない。選手たちは連戦からの疲労か、動きが鈍い。
 フィリピン戦の6得点をはじめ、ここまで毎試合得点で合計11ゴールを決めている釜本も、小柄で敏しょうな相手DFをかわせない。スタンドを埋めた観衆、テレビの前で固唾をのむ何千万人のイライラを吹き払ったのが、後半始めの杉山のゴール。相手GKのキックを拾って、左から中へ切り込んでシュートした。ボールを取って突破し、エリアに入り、飛び出してくるGKより早く蹴ったこの得点は“ここ”というチャンスをつかむ彼本来のもの。メキシコオリンピックの栄光への扉は、このゴール前で開かれたのだった。


釜本を生かすパーフェクトなパス

 1968年秋のメキシコオリンピックの銅メダルは、日本サッカー界総力を挙げての努力の結果だったが、代表チームが東京オリンピック以来、主軸を変えることなく進歩した証でもあった。
 その中で最も大きな変化は、ストライカー釜本邦茂の急成長だった。彼はこの年冬の西ドイツ留学のあと、それまでとは見違えるほどプレーがスピーディーになり、トラッピングからシュートに入る動作が美しく、またシュートは正確になった。
 その釜本のゴール前での力を発揮するためには、杉山のキープとパスの能力が必要だった。10代から代表の左サイドを務めた彼には、縦に突破して、スピードに乗ったままの左足での正確なクロスや、出ると見せかけて、やや内に持っての右足でのパスなどの武器があった。
 このころの代表選手たちは、いまほど多彩な技はなかったが、自分の得意な型のパスやシュートの精度を高めるための反復練習をした。代表の合宿中でも繰り返した。もちろん、それは個人のキックというだけでなく、ペア・プレーの練習でもあった。この練習、“東京”以来の4年間の合宿、遠征と試合の積み重ねで、杉山は「釜本の顔を見れば、どこでボールを受けたいかが読めた」と言う。
 メキシコ大会で日本はナイジェリア(3−1)を破り、ブラジルと引き分け(1−1)スペインとも0−0で1次リーグを突破して準々決勝に進み、フランスを3−1で破り、準決勝はハンガリーに0−5で敗れたが、3位決定戦でメキシコに2−0で勝った。
 強豪6ヶ国を相手に奪ったゴールは9、失点は8、9得点のうち釜本が7、渡辺正が2得点しているが、その中で杉山が起点となったのが5ゴール。なかでもフランス戦の1点目とメキシコ戦の2ゴールは、ゴール前の釜本の動きに合わせて、マーク相手に触れさせずに通したパーフェクトなものだった。
 メキシコの猛攻の中で、PKを防いだGK横山をはじめ、死力を費やしたディフェンダーたち、体力を使い果たすまで頑張ったMF陣たちと周到な準備をした監督、コーチの計画の上に、ライバルチームの2人のスターの「あうん」の呼吸が、アジアではまだどの国も到達しなかったオリンピックのメダルにつながった。
 杉山隆一は略歴にもあるとおり、選手生活引退後はヤマハ発動機の監督となり、県リーグレベルからJSL1部に引き上げ、現在のジュビロ磐田の基礎を築き、指導者としても成功者となった。


杉山隆一・略歴2
1974年(昭和49年)ヤマハ発動機(静岡県社会人リーグ2部)の監督に就任。同年、同1部に昇格。
1975年(昭和50年)静岡県社会人リーグ1部優勝、社会人大会3位。
1976年(昭和51年)静岡県社会人リーグ1部優勝、東海リーグ入替え戦で豊田工機に勝って、東海社会人リーグに昇格。
1977年(昭和52年)東海社会人リーグで優勝、地域リーグ決勝大会でも1位となって、日本リーグ2部入替え戦で田辺製薬に敗れる。
1978年(昭和53年)東海社会人リーグで連続優勝、地域リーグ決勝大会で勝ち、日本リーグ2部入替え戦で京都紫光クラブに勝って昇格。
1979年(昭和54年)日本リーグ2部で2位となり、入替え戦で日本鋼管を押さえて同1部に昇格。
1980年(昭和55年)日本リーグ1部9位、入替え戦で富士通と1勝1分けで同リーグ1部に残留。
1981年(昭和56年)日本リーグ1部10位(最下位)自動的に同リーグ2部に降格。
1982年(昭和57年)日本リーグ2部優勝、同リーグ1部に復帰。
1983年(昭和58年)天皇杯元日決勝でフジタ工業を延長の末、1−0で破って初優勝。同年、日本リーグ1部4位。
1984年(昭和59年)日本リーグ1部で読売クラブ、日産に次いで3位。
1985年(昭和60年)日本リーグ1部6位。
1986年(昭和61年)日本リーグ1部10位。
1987年(昭和62年)監督からサッカー部副部長兼総監督に。監督にはコーチの小長谷喜久男がなり、初めてブラジルからアンドレ、アディウソンの2選手を加え、また特別コーチとしてウイルソン・フェルナンド・リザットを招くなど、選手も指導陣も大変革。2選手の活躍もあって、念願の日本リーグ1部で初優勝した。


★SOCCER COLUMN

杉山、釜本で4万人
 明大時代、釜本との対決で、学生サッカーでは珍しく人気を呼んだ明早戦だったが、日本サッカーリーグでも、三菱とヤンマーの対決はリーグきっての黄金カードとなった。
 1960〜70年代の観客数ベスト5のうち、4位の日立対三菱戦以外は4試合が東京・国立での三菱対ヤンマーである。

1)4万人  (68年11月17日)
2)3万5千人(69年4月6日)
3)3万5千人(75年12月14日)
4)2万8千人(70年5月15日)
5)2万7千人(70年4月5日)

 また、大阪・長居でも、ヤンマー対三菱は67年10月29日に2万人(収容人員2万3千人)を集め、京都・西京極競技場では68年6月2日に、同競技場初の1万6千人を記録している。

監督さんサインしてください
 選手・杉山隆一が三菱重工を辞め、選手生活から退くと、故郷・静岡のヤマハ発動機サッカー部の監督にとの要請をうけた。
 芝生の練習場を2面も備えた会社の熱意に引かれての決断だったが、当時のチームは静岡県2部リーグのローカルチーム。そこの監督に“天下の”杉山が就任したのだから…。
 そのサッカー部員たちとの初顔合わせのあいさつをしたあと、杉山の周りに何人かがやって来た。紙を差し出して言ったのが「監督さん、杉山隆一とサインしてください」。
 プレーヤー時代にファンに囲まれ、サインをせがまれるスター選手だったが、さすがに自分のチームの選手たちにサインを求められたときには、びっくりしたという。


(月刊グラン2002年6月号 No.99)

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