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早稲田の“主” 工藤孝一(上)

 日本のサッカーが現在の“かたち”になるまでに、そのときどきに、あるいはその後の時代に影響を及ぼし、“いま”につなげた人たちを紹介しているこの連載では、ここ6ヶ月はメキシコ・オリンピックで日本の銅メダルに貢献した釜本邦茂と杉山隆一について述べました。今回は少し時間をさかのぼって、早稲田大サッカー部の名監督、工藤孝一(1909〜1971年)です。

 日本にプロフェッショナルの組織が生まれるまで、最も多く日本代表を送り出した大学は早稲田。1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡を演じた16人中10人、1964年(昭和39年)の東京オリンピックには17人中5人、1968年(昭和43年)メキシコ・オリンピックでも16人中5人と、世界のひのき舞台で成果を挙げた代表に最も多くプレーヤーを送り込んだ早大は、ほかの競技と同様に、日本サッカーのなかでの最大勢力の一つだった。そして工藤監督は、その早大の“主”(ぬし)であり、精神的支柱だった。
 東北の岩手の生まれで、早大でサッカーに熱中し、大学での後年はマネジャーとなり、卒業後は監督としてチームに費やした。戦中、戦後の一時期、故郷に戻って、岩手のサッカー発展を計ったが、やがて東京・東伏見の早大グラウンドの近くに居を移し、生涯、早大のサッカー指導にかかわった。名利にとらわれず、ひたすら早大とサッカー一筋の人生は、名監督、名コーチといわれる多くの指導者のなかでも、稀有な存在として、早大だけでなく、古いサッカー人の心に強く残る人だった。


選手からマネジャーに

 工藤孝一は1909年(明治42年)2月4日、岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれた。小学生のときに盛岡に移り、盛岡中学に入学し、野球などのスポーツに取り組むようになる。1927年(昭和9年)に早稲田の高等学院に入ると、サッカーに熱中する。
 日本のサッカーは大正の末期にビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンの指導を受けて、関東でも関西でも技術が大幅に進歩し始めていた。
 そのチョー・ディンの直弟子の玉井操が、1927年当時、早大のキャプテンだった。工藤は2年生のとき、旧制インターハイに出場し、野球の経験を生かしてGK(ゴールキーパー)で活躍、優勝している。旧制の高等学校の大会に、私立大学のなかで唯一、早大の予科ともいうべき早稲田高等学院(略して早高といっていた)が出場していたのは、いまから考えれば不思議だが、早稲田の鈴木重義の申し入れと主催者の東大の新田純興たちが了解したからと伝えられている。そのインターハイで早高が優勝したことで、チョー・ディンの指導の効果が注目され、チョー・ディンの全国巡回指導が始まったことも付け加えておこう。
 早大(商学部)に進んで、ポジションはCF(センターフォワード)となったが、体が小さく、決して器用ではなかった工藤は、やがてマネジャーとなる。
 このころ監督やコーチがいるところは少なく、早大もキャプテンとマネジャーが相談して練習法などを組み立てていたから、マネジャーは単なる雑務だけでなく、練習で笛を吹き、選手の進歩を眺め、試合のメンバーを決めるのにもかかわっていたようだ。
 大学2、3年の2年間をマネジャーとして働いた工藤は、サッカーの技術、戦術の指導に打ち込むようになり、卒業すると生命保険会社に勤めたが、間もなく転職、同盟通信社(現・共同通信社)の運動部記者となり、早大ア式蹴球部(サッカー部)の監督となった。


小石が飛んでくる猛練習

 マネジャーとしてグラウンドで笛を吹くようになった大学2年、1931年(昭和6年)には、川本泰三、高島(鈴木)保男、立原元夫、堀江忠男たちが加わり、次の年には加茂健、佐野理平、関野正隆たち、さらにはその翌年、加茂正五、笹野積次、西邑昌一たちが加わって、早大の黄金期が始まる。
 工藤監督は、これら個性の強いプレーヤーを猛練習で鍛えた。「弱気なプレーや小器用な技術は好まず、強引な体当たりをする選手を重用した」とは同期の井手多米夫年(昭和8年卒業)の話だが、体力の限界いっぱい、フラフラになるまで練習し、時には石を投げ付けるという監督の指導には、排斥運動もあったらしい。しかし、そうした強い指導力が、早大を骨太で、勝負強いチームに育てていった。
 それまで、関東大学リーグは東大が強かったが、工藤監督の下で、早大は1933年(昭和8年)に覇権を奪い、以来4年連続優勝した。
 1936年のベルリン・オリンピックには16人の代表選手のうち早大から10人が選ばれた。これは、2年前のマニラでの極東大会で関東、関西から選抜した選手で編成したチームの成績が悪かったため。個人技の優れた顔ぶれを集めるよりも、まず組織力を優先しようと、当時、日本で最も強かった早大を主力にしたのだった。
 工藤孝一はこのとき東大の竹腰重丸とともにコーチとして、代表選手団に加わった。
 主力の早大の選手一人一人の特性を知っている彼の能力が必要だったのはいうまでもない。慶応、東大、そして朝鮮半島から加わった金容植(普成専門)の選手たちとの組み合わせが成功して、対スウェーデン戦(3−2)の逆転勝利を生む。その後、工藤は日本サッカー協会の機関紙『蹴球』に“我等(われら)は如何(いか)に戦ったのか”と題する詳細なリポートを送っている。


名選手・「宗鎬

 そのころ日本の一地域であった朝鮮半島は古くからサッカーが盛んで、普成専門や延喜専門といった専門学校は、早大や慶応などと互角にわたり合い、優秀な選手を輩出していた。ベルリン・オリンピックの代表となった金容植(故人)は後に韓国サッカー界の“神様”として尊敬された名選手で立派な指導者だったが、一時期早大でボールを蹴ったこともある。1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)には「宗鎬(ペ・ジョンホ=故人)が早大に入学し、次いで李時東(故人)も加わった。工藤監督の力強いサッカーへの追求と彼らのプレーが合致していたからだった。「宗鎬――私たち世代は「ハイさん」と韓字を日本語読みにしていたこのプレーヤーは体格がよく、ドリブルもシュートも素晴らしかった。
 東西対抗に出場した西軍のGKで私より2歳年長の小畑儀宏(故人)が、「さんのPKの強さに「蹴ったと思ったら、もうネットに入っていた」と語ったものだ。
 その「宗鎬が1941年の早大ア式蹴球部のキャプテンになるのを承認したもの、工藤孝一監督だった。大戦直前の関東大学リーグで早大は、東大とともにリーグ1位となり、優勝決定戦も引き分けで両校優勝となった。朝鮮半島の出身者を主将にすることに懸念する向きもあったらしいが、早大サッカー部では、このことに誰も異論はなかった。もっともサッカーが上手で、統率力のある者が主将という、いまから思えば当たり前のことだが、それが通りにくい世にあっても、早大には工藤イズムが1本の芯となっていた。「さんもまた、早大のキャプテンであったことが、終生誇りであったという。


工藤孝一・略歴
1909年(明治42年)岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれる。
1921年(大正10年)盛岡市桜城小学校を卒業、岩手県立盛岡中学に入学。
1926年(大正15年)盛岡中学卒業。
1927年(昭和2年)早稲田大学第一高等学院に入学、サッカー部へ。
1929年(昭和4年)第6回全国高校選手権大会(旧制高校のインターハイ)で早稲田高等学院が優勝。
1930年(昭和5年)早稲田大学商学部に入学、サッカー部へ。
1933年(昭和8年)早稲田大を卒業、大同生命大阪本社に就職したが、同盟通信社運動部記者となり、早大サッカー部監督を引き受ける。
1936年(昭和11年)ベルリン・オリンピック日本代表コーチに就任。
1944年(昭和19年)召集、家族は郷里の川口村に疎開。
1945年(昭和20年)復員。
1947年(昭和22年)盛岡に移り、盛岡一高など県内の中学、高校、社会人チームを指導。
1950年(昭和25年)岩手県サッカー協会設立、会長となる。
1952年(昭和27年)東京・東伏見の早大グラウンドのそばに店舗併用の住宅を構え転居。以後。早大サッカー部にかかわる。
1957年(昭和32年)早大監督となる(以後8年間)。
1959年(昭和34年)早大・体育局講師に(以後10年間)。
1960年(昭和35年)日本代表チームの戦後初の韓国訪問に副団長として参加。
1961年(昭和36年)早大が海外遠征。
1964年(昭和39年)東京オリンピック大会競技役員に。
1966年(昭和41年)病に倒れる。早大監督を退き、チーム相談役に。
1971年(昭和46年)9月21日死去。同23日、東伏見サッカーグラウンドで早大蹴球部葬。


★SOCCER COLUMN

グラウンドでの葬儀
 工藤さんの葬儀は、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫が葬儀委員長となり、亡くなった2日後の1971年(昭和46年)9月23日に行なわれた。まずベルリン・オリンピック代表たちが、次いで卒業年度の順にOBたちが棺を手渡し、早大の学生がグラウンドまで運んだ。ベルリン当時の監督の鈴木重義、早大OB、ライバルだった慶應をはじめ、多くのサッカー人が集まった。グラウンドの中央、キックオフ・マークに棺を置き、センターサークルを囲んで『都の西北』を歌った。棺を覆う白い布とサッカー部旗だけ。名利を追わず、ただ早稲田とサッカー一筋を貫いたこの人を送るのにふさわしい、簡素で心のこもった別れだった。

日本サッカーの魂
『日本サッカーの魂 追憶・工藤孝一』(発行・工藤孝一記念誌作成委員会、岩手県盛岡市本町通2丁目8番5号)が出版されたのは、1997年(平成9年)9月20日だった。
 その2年前、盛岡一高のOBが集まり、岩手県の生んだサッカーの大先達、工藤孝一の没後25周年にあたって、追悼・記念誌を作ることになり、部会誌作成委員会が設けられ、早大ア式蹴球部OB会など関係者の協力で編集、発行した。
『日本サッカーの魂』はA5判変形、318ページで、早大の仲間でベルリン・オリンピックで活躍した川本泰三、加茂健や、早大で指導を受けた川淵三郎Jリーグチェアマン、八重樫茂生、釜本邦茂、松本育夫らメキシコ・オリンピックの銅メダル組の寄稿をはじめ、親族、故郷・岩手の友人や後輩たちが文章を寄せ、さまざまな角度から「練習のオニ」であり「戦術家」であり「選手の素質を見る目」のあった工藤さんを偲(しの)んでいる。


(月刊グラン2002年7月号 No.100)

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