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後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)

元代表・岡田吉夫の逝った日

 日韓共催のワールドカップの観戦を楽しみにしていた、かつての日本代表が病のため、6月22日に75年の生涯を閉じた。1954年(昭和29年)の最初の日韓戦(W杯スイス大会・アジア予選)で活躍した岡田吉夫――。息を引きとったのが、韓国代表がPK戦でスペインを破り、アジアのチームとして初のベスト4入りを果たしたのとほぽ同じ時刻だった。誠に不思議な縁というべきか――。
 1925年(大正14年)8月11日生まれの彼、岡田吉夫は旧制・神戸一中(現・神戸高校)で私より2年若く、大柄で当時の仲間のなかでは身体能力に恵まれていた。神戸高等工業専門学校(現・神戸大学工学部)から早稲田大学の理工学部へ進んで、1949年(昭和24年)の関東大学リーグ優勝、学生王座決定戦の優勝などに貢献、卒業後も日本代表として、1954年まで2度のアジア大会や前記ワールドカップ予選などでプレーした。
 岡田吉夫たちの世代は太平洋戦争のために、旧制中学の5年生(最上級生)のときは、全国大会が中止となって、鴇田正憲をはじめとする強力メンバーを持ちながら、神戸一中の全国優勝の夢は果たせなかった。大戦が終わり、専門学校を卒業した後、早大へ入ったのも戦時中に十分できなかったサッカーを究めようとしたからだった。
 代表ではDFだったが、いまでいうオールラウンドの選手で、早大ではウイングやインナー(攻撃的MF)といったポジションでもカを発揮していた。1954年の日韓戦第2戦目で、DFの彼の長いドリブルから日本のゴールが生まれたのも、彼の誇る戦歴の一つだった。
 昨年、東京で行なわれた神戸一中の卒業生の会合で、サッカー部の栄光について彼がスピーチした。脳梗塞を患った後でもあり、ゆっくりした口調での語りだったが、彼らしくユーモアがあり、要を得た素晴らしいスピーチだった。
 今年2月から調子を崩し、意識不明の状態が長く続いた末に逝ってしまった。家人の顔も定かに見分けられなくなっていた状態で、このワールドカップ直前に産経新聞に連載された『神戸一中物語』を耳元で読んで聞かせると、目に涙を浮かべたという。薄れた意識のなかでも、サッカーヘの思いは強く残っていたに違いない。
 その岡田吉夫もまた、早大WMWのメンバーの一人、早稲田のフットボーラーだった。


人材を生み出した工藤一門

 1933年(昭和8年)から1970年(昭和45年)までの37年間、生涯を早稲田のサッカーに打ち込んだ希有な指導者、工藤孝一の業績の第1は、早稲田という大学に強力なクラブをつくったこと。そして、このクラブから日本代表を多く送り出し、さらに代表選手にならなくても卒業後に指導者や審判、あるいは地域協会や日本協会などの理事として協会運営にかかわるなどや数多くの優れたサッカー人を送り出したことだ(前号参照)。
 日本のサッカーが最初に“世界”の舞台に挑戦した1936年(昭和11年)ベルリン・オリンピックには、16人の選手中10人が早大だったことはよく知られている。いずれも自ら工夫し、自分で技術を磨いた個性派だが、工藤孝一の笛で体力の限界近くまでグラウンドを走り回ったことがカをつけるもとになっている。
 大戦直後のサッカー再興期には、工藤孝一は東京を離れて郷里の岩手県でサッカーの普及とレベルアップに取り組んでいたから、岡田吉夫たちの世代を直接指導したのではない。やがて1952年(昭和27年)に東伏見にある早大グラウンドの近くに居を構えて以来20年間、早大ア式蹴球部から離れることはなく、工藤の膝下から優秀なプレーヤーが育っていったのだが――。
 岩手時代の“傑作”の一つが八重樫茂生だった。1933年3月24日生まれの八重樫は旧制・盛岡中学のときに工藤と出会う。その指導で八重樫はカをつけ、新制・盛岡高校のときには体も強くなって、岩手県では知られた選手となった。もちろん、サッカーが東北地方でまだ普及していない当時、工藤は盛岡高校だけでなく各地を飛び回って、県下の高校チームの指導もしたが、これというプレーヤーの個人能力を伸ばすのにもカを注いだのだった。


八重樫茂生を岩手から世界へ

 1951年(昭和26年)仙台で第31回天皇杯が行なわれたとき、東北で初めての天皇杯に工藤は盛岡サッカークラブを率いて参加した。同じ東北でも開催地の仙台クラブは、刈谷クラブ(愛知・東海)を倒し、早大WMWをも1−0で破って準決勝に進んだが、盛岡は1回戦で敗退してしまう。しかし、その盛岡の社会人にまじって参加していた高校3年生の八重樫には、準決勝、決勝のレベルの高い試合の観戦は大きな刺激になったはずだ。
 この年、東京に戻った工藤は早大の監督となり、次の年、中大に進んだ八重樫を早大へ編入させ、手元で育てたのだった。
 八重樫は1954年から1958年(昭和33年)に卒業するまで、関東大学リーグの優勝3回、全国大学選手権優勝1回、東西学生王座決定戦優勝2回と早稲田の学生ナンバーワンに貢献し、在学中に日本代表となって、1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピック予選で韓国を抑えて、本大会に進んだ。メルボルンでは結局1回戦で敗れたが、これが彼のオリンピックのキャリアの第1号。1960年(昭和35年)のローマ大会はアジア予選で敗れたが、1964年(昭和39年)の東京大会ではアルゼンチンに勝ち、1968年(昭和43年)のメキシコ大会では鋼メダルの栄光に輝いた。
 工藤監督に見いだされた八重樫は、東京大会のために日本の指導にあたったデットマール・クラマー・コーチによって、さらにレベルアップした。釜本や杉山といった若い選手からも尊敬されて、60年代の日本代表チームの主将を務め、自分より2、3歳年長の長沼健監督、岡野俊一郎コーチを助けて、代表チームのまとめ役、精神的な支柱となった。プレー・メーカーであり、チームの心臓部であった彼に対する外国チームの厳しいマークは、その足を痛めつけたが、重なる故障を克服し、技術を磨き上げた粘り強さは、工藤孝一と同じ岩手県人の特性であったのかもしれない。
 その八重樫のプレーは体が強く、動きの量が多いが、決して身のこなしがスマートというのでもなく、ずば抜けて早いわけでもなかった。いまのようにテレビなどで海外の上手なプレーヤー、つまり、いい見本を見ることもなかったころだから、若いころの彼は、いまの時代の同年代のプレーヤーから見れば、技術は高いとはいえなかった。しかし、年を重ねるごとにドリブルもパスも磨きがかかり、35歳で迎えたメキシコ・オリンピックのころには、パスを出す呼吸、そのパスの強さを強弱の使い分けなどに、ほれぼれするような巧みさを発揮するようになっていた。
 1961年(昭和36年)の西ドイツでの合宿練習のときに、有名なフリッツ・ワルターがパスの見本を示したことがあった。1954年ワールドカップ・スイス大会での優勝チームの優勝チームの主将だった彼は。クラーマー・コーチの要請に応じて、松本育夫や桑田隆幸などの若い選手の突進にピタリと合わせるパスを送ってみせた。「こんないいパスが来るなら、いくらでも走りますよ」と言う松本たちの言葉に苦笑した八重樫だが、その7年後のメキシコ・オリンピックの第1戦、対ナイジェリア(3−1)では、左前に出て、杉山からのパスを受け、中央の釜本にピタリと合わせるパスを送って、釜本のへディング・ゴールで先制点を生み出した。この試合の2点目もまた、八重樫のFKから杉山−釜本とつないだものだった。
 オリンピックやワールドカップでの初戦の重要さは、2002年ワールドカップでもここでつまずいたフランスやポルトガルなどの強チームが早々と敗退したことでも明らかだ。メキシコ・オリンピックの栄光も初戦の勝利によって日本代表が勢いづいたこと、それを引き出した八重樫の年季の入ったパスの大切さを忘れてはなるまい。
 チーム競技であるサッカーであっても、プレーヤー一人一人の資質を見抜き、その選手の個性と能力を伸ばすことが必要なのはいうまでもない。そのためにはプレーヤー自身の努力はもちろん、その技術や体力のレベルアップを助けるコーチの力もまた重要なのだが、現実はチーム全般の指導に比べて、個人能力アップにどれだけのカが注がれているのだろうかと思うことがある。
 岩手県というサッカー後進地域で一人の少年に目を付け、高校生のときに大人のチームの一員として天皇杯を経験させ、より高いレベルに目を開かせた。その少年が大学に進むと、転校させて伸び盛りの時期を自分の手元で育てた。八重樫茂生の成長過程を見ると、あらためて工藤孝一というコーチの目の高さと、プレーヤーに自分のすべてを注ぎ込む“全人教育”の強さをあらためて知ることになる。


★SOCCER COLUMN

工藤門下延ペ21人がオリンピックに
 1936年のベルリン・オリンピック以来、世界の舞台で戦ってきた日本代表のなかで、工藤孝一監督の下で育った早稲田のプレーヤーは以下の通り。

▽1936年ベルリン・オリンピック代表
 GK/佐野理平、不破恵、DF/堀江忠男、鈴木(高島)保男、HB/立原元夫、笹野積次、FW/川本泰三、加茂健、加茂正五、西邑昌一

▽1956年メルボルン・オリンピック
 コーチ/川本泰三、FW/八重樫茂生

▽1964年東京オリンピック
 DF/宮本征勝、HB/森孝慈、FW/八重樫茂生、川淵三郎、釜本邦茂

▽1968年メキシコ・オリンピック
 DF/宮本征勝、MF/八重樫茂生、森孝慈、FW/松本育夫、釜本邦茂

 4度のオリンピックに、延ベ21人の代表選手を工藤一門から送り込んでいる。

一度も褒められなかった釜本邦茂
 Jリーグの川淵三郎チェアマンも、メキシコ・オリンピックの得点王・釜本邦茂(日本協会副会長)も工藤孝一の門下生。川淵チェアマンによると、合宿所での選手の食事で栄養をつけるために、監督自らがモツをもらいに芝浦の屠畜場に出かけていたという。
 釜本邦茂は1963年(昭和38年)からの4年間の在学中に、一度も褒めてもらったことがなかったという。早大のときに4年連続して関東大学リーグの得点王になった彼を褒めなかったのは、大器・釜本の将来を考えてのこと。いくら学生リーグでゴールを奪っても、自分の素質の半分も開花していないということだったらしい。
 1960年に早大に入学した松本育夫は一度は「早稲田にはお前はいらない。家に帰れ」とまで言われたという。厳しい言い方は、高校のとき花形選手であった彼の慢心を戒め、1年生からレギュラーで使うための伏線であったらしい。

1971年ごろに3・5・2の案を
 工藤孝一というコーチは猛練習ばかり強調されているが、サッカーに関してはマメな実践家でもあった。東伏見の早大グラウンドにシュートの練習のための「シューティング・ボード」を建てたのも、また、ベルリン・オリンピック代表の国内合宿では第一勧業銀行の持っていた、そのころでは珍しい上質の芝生グラウンドを借りたのも、この人だった。
 そしてまた、外国チームの新しいフォーメーションや戦術などにも、よく通じていた。
 そうした戦術論や施設や用具などについて、細かく配慮する人だった。後に1962年(昭和37年)に早大を卒業した鬼武健二(現・セレッソ大阪会長)は、日本サッカーリーグのヤンマーではリーグ最多勝の監督となったが、そのヤンマーの最盛期の1971年(昭和46年)工藤から「ヤンマーで3・5・2のシステムを採用してはどうか」というアドバイスをもらったという。実現はしなかったが、いまから思えばなかなかのアイデアであったはずだ。


(月刊グラン2002年8月号 No.101)

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