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韓国に一度も負けなかった 最後の古典的ウイング、鴇田正憲

 鴇田正憲(ときた・まさのり)――第2次大戦直後、1940年代後半から1950年代にかけて関西学院大学、田辺製薬、日本代表などの各チームで多くの実績を残した古典的な右ウイングプレーヤーが、3月5日に亡くなった。
 1925年6月24日まれ、78歳。5日夜通夜、葬儀は6日午後1時から神戸市中央区旭通のセレモニーホールで行なわれた。


神戸一中、関学、田辺製薬

 旧制神戸一中で私より2年下だった彼は、2年生でレギュラーの右ウイングとなり、3年生と4年生のときに全国大会(明治神宮大会)の優勝メンバーとなった(彼が5年生のときは全国大会は中止)。
 大戦後、関西学院大に進み、ここでも関西学生リーグでの優勝、関学クラブでの日本選手権優勝に貢献し、田辺製薬に入って実業団大会6連勝、94戦92勝1分け1抽選勝ちという無敗記録の樹立にもかかわった。
 俊足でタフ、200メートルドリブルして某大学サッカー部の足自慢が1メートルの差を詰られなかった。それも1人だけでなく、2人目も――、というエピソードがある。
 戦後の関学クラブの天皇杯での活躍の大黒柱であったが、速攻重視の関学を卒業したのち、田辺製薬に入って、私の兄、賀川太郎と右サイドでペアを組んで、持ち前のスピードに緩急の変化がつくようになって、このチームの右サイドは日本代表の右サイドのペアともなった。


メルボルン予選の勝利

 第1回、第2回のアジア大会や54年の日韓戦(ワールドカップ予選)を経て、日本代表が大幅に若返ったとき、31歳の彼はただ一人チームに残った。56年メルボルン・オリンピックの予選を迎え、韓国と1勝1敗となり、抽選で本大会へ進んだ。若返り策の成功だが、第1戦2−0の勝利は彼の右サイドでのキープによって、圧倒的な韓国の攻勢の中でDFはマークの再確認の間(ま)を稼ぎ、彼の微妙なボールの持ち方によって攻撃の発起点を作ることができたからであるのを忘れることはできない(足を傷めて第2戦は欠場)。
 60年にクラマーが来日したとき、彼は代表を引退していたが、東京で彼と賀川のプレーを見たクラマーが、パスのやり取りはこのようにすればよいと現役の代表選手に言った。
 神戸一中での神宮大会で、当時日本の一部であった朝鮮地方代表との成績を合わせると、彼は対韓国戦2勝2分け無敗という記録を持つことになる。70歳を過ぎてのガンとの戦いもタフだったが、そんな中でも会えば私に「なぜいまの選手はクロスを正確に蹴ることができないのか」と問うのだった。


(週刊サッカーマガジン2004年3月23日号)

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