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東上の車中に思う デアバルの不運とトルコの好運

「2002年ワールドカップも、あと3試合を残すだけだ」。新大阪駅を13時27分に発車した“のぞみ”の中で思う。
 6月25日、私は埼玉スタジアムでの準決勝、ブラジル対トルコを見るために東へ向かっていた。
 トルコが強くなったとは聞いていたが、ベスト4まで来るとは――。
 彼らのしたたかな試合ぶりを振り返りながら、私は、デアバルさんは喜んでいるだろうな、と思うのだった。


釜本の指導をしたデアバル

 ヨーゼフ(通称ユップ)デアバル(JOSEF DERWALL)は1927年3月10靖生まれだから、デットマル・クラマー(1925年4月4日生)よりは2歳若いが、まず私たちと同年代。日本人にとっては釜本邦茂が1968年1月から2ヵ月間西ドイツに留学したとき、彼を直接指導し、短期間での彼の大変身を助けた、いわばその年秋のメキシコ・オリンピック得点王の誕生と日本の銅メダルにかかわった大切な人でもある。
 西ドイツがまだセミ・プロ時代(セミ・プロといっても1954年のワールドカップに優勝した)のFWの選手で、アルメニア・アーヘン(100試合41得点)、フォルトウナ・デュッセルドルフ(110試合45得点)などで活躍し、ドイツ代表として2試合の経験を持っている。1962年からコーチとなり64年から70年までザール州協会の主任コーチ、70年−78年まで西ドイツ代表のアシスタントコーチとして、ヘルムート・シェーン監督を補佐。シェーン引退後の1978年から1984年までドイツ代表監督を務めた。
 釜本が世話になったのは、ザール州協会のコーチであったとき。私は80年、84年の欧州選手権まで、監督の話をじっくり聞くことができた。


84年からガラタサライに

 その84年欧州選手権の1次リーグ敗退の責めを負って、6月24日に代表監督を去ったあと、トルコの名門ガラタサライ(イスタンブール)に招かれ、ここで5年間コーチした。ドイツ代表に14年かかわり、監督時代にワールドカップ準優勝、欧州選手権優勝の実績を持つデアバルによって、トルコに近代サッカーが植え付けられ、指導者の向上、代表のレベルアップが急速に進んだと多くの人は言う。
 EURO84の不本意な成績と解任は、彼にとってもその周辺にとってもショックだった。その不運が原因で、トルコ・サッカーの興隆につながり、解任の20年後にブラジルと決勝進出を争うのだから…。名古屋を過ぎた“のぞみ”の中で、私はサッカーの不思議をかみ締めていた。


(週刊サッカーマガジン2004年4月27日号)

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