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準決勝を前に――熱っぽく語った兄・太郎への追憶

 動き始めたプレスバスの中で、このブラジルvsトルコの準決勝が終わればあとは3位決定戦と決勝だけか、と思う。
 2002年6月26日、昼過ぎに芦屋(神戸)を出て、東京を経由して、JR大宮駅からバスに乗り込んだのだった。
 トルコも強いが、やはりブラジルだろうな――と考えながら、わが家とブラジルの不思議な縁を振り返っていた。


ブラジルと移住者たち

「ゆけゆけ同胞
 海越えて、遠く、南米ブラジルヘ
 御国(みくに)の光、輝ける
 きょうの船出の美しさ」
 港からブラジルヘの移住者をこの歌声とともに何度か見送った経験は、私の世代の神戸の子供には、共通のものだ。わが家の両隣、もとの十五銀行の建物に「移民宿泊所」の看板が掲げられ、移住者たちが船便を待つ間、ここで待機していた。
 貧しく、人口の多い日本からの海外移住は国策の一つでもあった。その人たちの努力でブラジルで日本人の評判は高まったのだが、そのころの私には、まだブラジルとサッカーについて聞くことはなかった。


ペレのトラッピングを見たか

 ブラジル・サッカーが急にわが家で浮上したのは、大戦後2年目だったか――田辺五兵衛さん(故人。元日本サッカー協会副会長)が賀川太郎をブラジルヘサッカー修行に行かせたいと発言したことからだった。当時の社会情勢ではかなえられる話ではなく、田辺さんの思いつきは立ち消えとなったが、まだ学生であった兄はしばらく興奮していたものだ。半世紀以上も前の話である。
 兄・太郎(1922〜90年)は日本代表と田辺製薬、大阪クラブなどでなかなかのプレーを見せ、表舞台から退いたあとも、自分が社長であった会社のチームで65歳まで、岡山県リーグの2部公式試合をこなしていた。
「3部から2部に上がるとさすがにしんどい」。20歳代の若手を相手の感想だったが、彼からの電話は、ことサッカーの話になると50、60分に及ぶこともあった。
 その一つに70年ワールドカップ・メキシコ大会のブラジルvsイングランド戦がある。
「テレビニュースでブラジルのゴールを見た。あのときのペレのトラッピングがすべてだよ(トスタンからのクロスを、相手DFを前にして止めた)。あの見事なボールコントロールでディフェンダーはクギ付けになって、ジャイルジーニョヘのパスにも反応できなかった」と力説していたのを、いまも思い出す。12年前に癌で没した彼は、きょうの試合を天から見て、きっと「電話」をかけてくるだろうな、と思った。


(週刊サッカーマガジン2004年5月11日号)

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