賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >皇太子殿下ご臨席に思う 60余年前の天覧試合

皇太子殿下ご臨席に思う 60余年前の天覧試合

 すっかり、なじみになった顔が並んでいた。ただし、ロナウジー二ョはいなかった。代わって20番を着けた小柄なエジウソンが入っていた。6月26日、満員の埼玉スタジアムでの2002年ワールドカップ準決勝、ブラジル対トルコのキックオフ前のセレモニーが行なわれていた。
 正面スタンドから見て、左側にカナリア軍団が、右側に赤のユニホームのトルコ戦士が並んでいた。トルコの一番左端に、長身のハカン・シュキュル。二人置いて右には、日本戦でヘディング・シュートを決めた“モヒカン刈り”のユミト・ダバラがいた。
 ベスト4の戦いの場に立つ彼らの喜びに満ちた顔を見ながら、私はこの日のVIP席に皇太子殿下と雅子妃がご臨席になっていることを知った。日本代表は出場していないが、列強チーム同士の戦いを天皇家がご観戦される――良い時代になった、と思った。
 蹴鞠と関わりの薄い天皇家だが、現代のサッカーということになると、昭和天皇の1947年(昭和22年)の東西対抗へのご臨席がよく知られている。
 世界大戦によって荒廃した日本の再興のために“国民を励ましたい”という国内巡業に先駆けて、当時、異例のスポーツ観戦にサッカーの東西対抗が選ばれた。若いメンバー構成の西軍とベルリン・オリンピック組が主力の東軍との熱戦を喜ばれたのか、試合後に整列して見送る両チームの選手たちに、予定になかった“お言葉”を掛けられた。
 これがのちに宮内庁からの天皇杯ご下賜につながるのだが、そのとき、学習院初等科(小学生)の皇太子(現天皇)が昭和天皇とともに観戦され、サッカーボールを手に持っておられた姿は、いまも私の頭に残っている。この話は日本サッカー界の重大なひとこまだが、実は昭和天皇の“天覧”の最初は、1939年(昭和14年)の第10回明治神宮大会だった。
 大会の各競技の一部ずつを見て回られたのだが、サッカーは中学(旧制)の部優勝チーム、神戸一中と師範学校の部優勝の広島師範とが15分間だけの1位決定戦を天覧試合とした。
 兄・太郎(前号参照)が主将だった神戸一中が1−0で勝ったのだが、ご説明役の竹腰重丸(たけのこし・しげまる)さんは短い時間に点を取ったので、得点についてのご説明ができて良かった――と喜んでいたとか。当時、中学3年生だった私はこの試合には出場していないが、世界大戦を挟んだ1939年と47年の二つの天覧試合は、ごく身近なものに感じた。その昭和天皇のお孫さんにあたる皇太子と、同じスタジアムでワールドカップの準決勝を見ることになるとは――。
 良い時に生きることになったものだ。


(週刊サッカーマガジン2004年5月18日号)

↑ このページの先頭に戻る