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天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)

ブラジル優勝とロナウド

 2002年ワールドカップで、開幕前は評価の低かったブラジル代表が優勝した。98年チャンピオンのフランス、南米予選で最も輝いたアルゼンチン、あるいはフィーゴをはじめとするテクニシャンぞろいのポルトガルなどが敗退するなかで、5度目のタイトルをブラジルが握ったのは、度重なる故障を克服したロナウドというストライカーが復帰して、そのカを十分に発揮したからだった。
 自らゴールを奪い、ゴールを生み出すチャンスもつくれる優れたストライカーのカが、勝負に大きな影響を与える――昔からの極めてシンプルな法則が、この現代の守備力の発達した世界のトップが集まるワールドカップでも、また同じであることをブラジルの優勝は示している。
 ワールドカップで高まった人気をJリーグに向けたい――とは鈴木昌・Jリーグ新チェアマンの言葉だが、いいストライカーのいるチームの試合には人が集まるのだから、リーグ発展のためにも、また、日本代表が常に世界の上位に進出するカを持つためにも、ストライカーあるいはFWの充実が必要だろう。
 日本サッカーの歴史のなかで、ストライカーとして国際的な評価を高めたのは68年メキシコ・オリンピックの得点王・釜本邦茂だが、彼よりも少し前の時代にも「万能」といわれたFWがいた。二宮洋一(にのみや・ひろかず)――1917年(大正6年)生まれで、第2次大戦前の1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)まで関東大学リーグで慶応の黄金期を築き、大戦後も慶応の学生や若いOBを率いて天皇杯で活躍、ゴールを奪うシューターとしても、攻撃を組み立てるプレー・メーカーとしても、隔絶したプレーヤーだった。


60歳を超えてもゴールに執着

「オッ、きょうは皆そろったな。じゃあ、点を取れるな」ニッと笑う、この顔を見ながら、60歳になるというのに、やはり、この人はゴールするのが一番好きなんだな、と思った。そろったな、というのは、賀川太郎、則武謙、鴇田正憲たち後輩であり、かつての日本代表の仲間たち。このとき50歳を超えていた私と同世代のグループを見ると、二宮洋一は60歳に近い。しかし、“年寄りサッカー”でも、その体力とスピードに合わせたパスを出してくれる連中との集まりは、“ゴール量産”の大好きな彼には、何よりの楽しみだった。
 60歳になっても、いや70歳になってもその上体を突っ立てた、バランスのいい姿勢は変わらなかった。ボールを蹴る力は徐々に落ちたが、サイドキックでくれるボールに狂いはなかったし、立ったまま、壁になってダイレクトで流し込むスルーパスも、昔と同じ正確さだった。
 一生、サッカーを愛した二宮洋一だが、70歳を超えてもプレーするときは、常にCF(センターフォワード)ストライカーだった。
 CFとしての開花は、旧制・神戸一中の5年生のときから。
 入学したのは1929年(昭和4年)最上級生(5年生)に大谷一二、4年生に右近徳太郎がいて、翌年1月の全国中学選手権大会(現・全国高校選手権)に優勝する。
 3年後、1933年(昭和8年)にも神戸一中は全国中学選手権に優勝する。二宮と同期の津田幸男(GK)や大山政行(FB)田島昭策(FW)直木和(FW)たち早熟組は、すでにレギュラーに入っていたが、彼の全国大会出場は2年後となる。
 ただし、その全国中学選手権は主催の大阪毎日新聞社の案「オリンピックのサッカーが夏だから、中学サッカーも夏に」――によって、1935年(昭和10年)1月に予定された第17回大会は、同年夏に変更され、それに代わる全国規模のイベントとして、1934年(昭和9年)8月下旬に全国中等学校招待大会が開催された。会場は甲子園南運動場、参加は刈谷中(東海)青山師範(関東)御影師範(兵庫)神戸一中(兵庫)広島一中(中国)明星商〔大阪)の6チーム。神戸一中は刈谷を4−2、御影師範を5−1、決勝で明星商を5−3で破った。この試合を3−0とリードした後、3−3にまで追い上げられたが、大谷四郎のロングシュートで4−3、右からのクロスを叩き込んだ二宮のヘディングで5点目を奪って、突き放した。


松丸貞一監督、播磨幸太郎と

 神戸一中の5年生でゴールを奪う面白さ、勝つ楽しさを覚えた二宮洋一は、1935年、慶応義塾の予科に入り、1年生で関東大学リーグに出場して、いよいよ“おとな”のプレーに踏み込んでゆく。
 このころの関東大学リーグは1924年(大正13年)設立の創成期につぐ、東大の6連勝時代が終わり、1933年から早大の連覇期に入っていた。東大や早大に比べるとスタートの遅れた慶応ソッカー部もまた、早大に拮抗する勢力になっていた。
 ここで、彼は松丸貞一(故人)という慶応ソッカー部そのものともいえるコーチと、神戸一中の2年先輩の播磨幸太郎とともにプレーするという幸運に恵まれる。
 松丸貞一という優れた指導者については『右近徳太郎』(2001年2月号)の項でも触れたが、大戦前のドイツ・サッカーの指導者、オットー・ネルツの理論に傾倒し、それによって後発の慶応を早稲田に並ぶチームに仕上げた名監督だった。
 その松丸監督が最も信頼していた一人、播磨幸太郎は、小柄で足も速い方ではなかったが、いささかガニ股で粘っこい足腰のドリブルは群を抜いていた。足の間にボールを持ったかと思うと、少し体から離して、相手のハナ先にちらつかせて誘ったりする。自ら鈍足といいながら、その緩急の落差で相手をすり抜けるうまさ、相手の間合いに入る直前にトウで突いたボールが方に渡ってゆくのは、誠に不思議であった。
 この播磨のプレー・メークと二宮の決定カによって、1937年から1940年までの慶応の黄金期がつくられる。
 それは1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックの代表の主力であった早大がつくった関東大学リーグの光彩を継ぎ、ベルリン・オリンピックの後、1940年の「幻の東京オリンピック」に向かって、日本サッカーが初めて迎えた輝かしい時期の象徴ともいえるチームだった。170センチ、いまの選手のなかに入れば小柄な部に入る二宮だったが、このころの彼は利き足の右でのシュートは、角度もインステップ、インサイド、アウトサイドと自在だったし、左足の角度はいま一つだったが、インステップで叩くシュートは、中央左寄りの地点からゴール右上隅へ飛び込んでいった。
 ヘディングのジャンプは驚くほど高く、また無類の負けず嫌いで、長身DFとの競り合いにも果敢に挑み、その競り合いの後、ゴールキーパーのセービングさながらのスタイルで落下することもあった。


二宮洋一・略歴
1917年(大正6年)11月22日生まれる。
1923年(大正12年)御影師範付属小学校に入学。
1929年(昭和4年)旧制・神戸一中に入学。
1934年(昭和9年)神戸一中5年生のとき、夏の全国中等学校招待大会に優勝、公式試合15戦無敗。
1935年(昭和10年)慶応大学(予科)に進む。予科1年から関東大学リーグに出場(リーグ4位)。
1936年(昭和11年)6月の日本選手権大会(現・天皇杯)に慶応BRBで優勝。
            秋の関東大学リーグは、ベルリン五輪代表を主力とする早大に敗れて2位(4勝1分け1敗)。
1937年(昭和12年)6月の日本選手権大会に慶応大で優勝。
            秋の関東大学リーグ優勝、東西大学一位対抗にも京大を破って優勝。
1938年(昭和13年)予科から大学に進む。日本選手権大会は決勝で早大に敗れる。
            関東大学リーグは2連覇。東西大学一位対抗は関学に2−3で敗れる。
1939年(昭和14年)6月の日本選手権大会に慶応BRBで優勝。
            秋の神宮大会の決勝でBRBは成興蹴球団(朝鮮地区代表)に0−3で負ける。
            関東大学リーグで3年連続優勝、東西大学一位対抗も4−2で関学に勝利。
1940年(昭和15年)5月の日本選手権大会に慶応BRBで連続優勝。
            秋の関東大学リーグ4年連続優勝。
            東西大学一位対抗も3−0で関学に勝利。
1941年(昭和16年)慶応大学卒業。
1942年(昭和17年)第1回興亜競技大会のサッカー日本代表となり優勝。
            陸軍に入隊、前橋の予備士官学校を経て任官。
1945年(昭和20年)復員。
1951年(昭和26年)3月、第1回アジア競技大会の日本代表に監督兼選手として参加、出場、3位に。
            5月、仙台での第31回天皇杯で慶応BRBが優勝。
1952年(昭和27年)5月、第32回天皇杯で全慶応が優勝。
1953年(昭和28年)5月、第33回天皇杯で全慶応は3位。
1954年(昭和29年)3月、ワールドカップ・スイス大会極東地区予選、日本対韓国戦に日本代表として出場。
            5月、第2回アジア競技大会(マニラ)に日本代表として出場。
            5月、第34回天皇杯に慶応BRBで優勝、決勝の対東洋工業は延長4回、3時間の末、5−3の勝利だった。
            この年で第一線のプレーから退く。
1976年(昭和47年)JFA(日本サッカー協会)監事に (1986年退任)。
            JFA後援会会長、クラブ育成協議会会長などを務める。
2000(平成12年)3月7日、永眠。


★SOCCER COLUMN

京大に0−1で悔しがった中学生たち
 1934年、5年生になってカをつけた二宮洋一をCFとするこのときの神戸一中は、卒業回数でいえば36回生(私、賀川浩は43回)になる。5年生は7人が後にすべて日本代表となるほど粒がそろっていた。4年生にも金子禰門、大谷四郎(大谷一二の弟)といった好選手がいた。彼らは4月から8月末までの公式試合15戦に全勝し、秋には第六高等学校(旧制インターハイ優勝)や神戸高商(専門学校大会のチャンピオン)をも破ったが、関西学生リーグのナンバーワン、京都帝大に0−1で負けて悔しがったという。
 港町のおかげでイタリア軍艦、イギリス軍艦などの軍人たちとも試合し、さすがに大人の軍人たちは強く、勝てはしないが、それでもゴールを奪った。
彼らの技を見て「イタリア軍艦の選手のシュートはボールを上から叩いているから、上がっていく」(金子禰門)といった感想を記している。こうした空気のなかで二宮洋一の素地がつくられた。

足技の中国人から“先生”といわれて――
 1954年(昭和29年)タイ在住の中国人選抜チーム「維納」(ウエイホウ)が来日した。チームのなかには第2回アジア大会の陸上競技短距離の代表になったという足の速いDFもいたが、このチームの監督が対戦した二宮洋一のテクニックに感心し、「二宮先生にコーチを頼む」といい出したために、彼らの滞在中、その練習に付き合ったという。
「シーサン(先生)シーサンといわれるので、つい引きうけて、シュートなどを指導することになった」とは本人の弁。もともと、中国人は足技が上手で、かつては日本が学ぶ立場にあったのだが、そんな伝統を持つタイの中国人にも、二宮のシュートの形の美しさやトラッピングのうまさが驚きだったらしい。
 このとき二宮洋一は36歳だった。


(月刊グラン2002年9月号 No.102)

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