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天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(下)

相手に恐れられるFWの効果

 8月17日に終了した2002年Jリーグ第1ステージで、名古屋グランパスは3位に食い込んだ。
 この好成績には、新たに加わったCDFのパナディッチとFWのヴァスティッチが、チームになじんで働くようになったことが大きい。中央の守りに長身で経験のあるパナディッチが入ったことで「軸」ができ、守備が安定したこと、そしてヴァスティッチはこれも長身のヘディングという武器をちらつかせながら、足のシュートもポスト役もこなした。
 ウェズレイという自ら動いて開拓できるストライカーと、このヴァスティッチの組み合わせがうまくいって、相手の脅威となっている。
 このグランパスの3位への駆け込みと、ジュビロ磐田の優勝は一つの共通点を持っている。
 それはジュビロの高原直泰が成長し、ゴン中山と組む2人のトップが、相手DFの脅威になっていることだ。もちろん、ジュビロは2人とも“国産”であり、グランパスの2FWは“輸入もの”という違いがあるが、チームが勝ってゆくためには、まずFW、ストライカー陣の強化が大きな比重を持つことは、昔も今も変わりはない。
 連載企画『このくに と サッカー』で昭和10年代から20年代にかけて活躍した二宮洋一を紹介しているのは、メキシコ・オリンピック(1968年)の得点王・釜本邦茂の前にも、こうしたストライカーがいたことを伝え、高原たちに続く多くのゴール・ハンターが日本に生まれることを願っているからだ。
 さて、その二宮洋一――。前号では旧制中学(神戸一中)でゴールを奪う楽しさを知った彼が慶応の予科に入り、2年先輩の播磨幸太郎とともに慶応の黄金期をつくったことを紹介した。この号では、当時の日本のレベルを示す、英国アマチュア・チームに4−0で勝った試合からスタートし、二宮洋一自身のプレーの変化に触れてみたい。


英国の強豪アマに大勝した攻撃力

 1938年(昭和13年)の4月、イングランドのアマチュア・チーム「イズリントン・コリンシアンズ」が、世界一周の遠征試合の途中に日本に立ち寄って試合をした。
 ロンドンには1882年(明治15年)創立の古い伝統を持つコリンシアンズというアマチュア・クラブがあった(1939年まで)が、この来日チームは、これとは別のロンドンの北部イズリントン地区を本拠とするクラブ。
 1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに参加した中華民国(当時)の代表チームがロンドンに寄ったとき、親善試合をしてイズリントン・コリンシアンズが3−2で勝っているが、このときの縁で極東遠征を計画し、他のクラブからも補強選手を加えて、1937年(昭和12年)10月にロンドンを出発した。欧州各地を回り、エジプト、インド、マレー半島、シンガポール、香港、フィリピン、上海と転戦した。航空機でなく船旅の時代だったから、7ヶ月に及ぶ長期にわたったが、81戦58勝16分け7敗の成績を収めていた。
 彼らにとって苦手な南アジアの暑熱や、環境の変化、さらにはすべてアウェー試合だったことを考えると、アマチュアとしては相当な強さであることが知れる。
 船の予定が遅れて、4月6日の午後、神戸港に到着。その日の夜行列車で東上し、7日朝に東京着、午後には試合という強行スケジュールだった。


早大の左ペアと慶応のトリオ

 この強チームを迎えるにあたって日本協会は、合宿練習中の日本代表候補の中から、関東の大学生を主に、全関東選抜チームを編成した。
 午後2時、明治神宮競技揚(現・国立競技場)で始まった試合は、そうした懸念を吹き飛ばす4−0の快勝だった。
 全関東はGKが津田(慶大)FBが吉田(早大)菊池(東大)HBが森(東大出)種田(東大出)金容植(早大)FWが篠崎(慶大)播磨(慶大)二宮(慶大)加茂健(早大出)加茂正五(早大)で種田、金、加茂兄弟はベルリン代表だった。
 試合前の関心は、2年前のベルリン・オリンピック以来、錬磨を重ねた日本のショートパス攻撃が、長身のイングランド勢3FBを破れるかどうかにあった。しかし、左サイドに加茂兄第と慶応のトリオで組んだFWは、オフサイド・トラップに悩まされながら39分に金−加茂正とつないで、加茂正のクロスを二宮がヘディングで先制した。コリンシアンズもロングボールで攻撃、両チームの特色の出る攻防となった。
 後半初め、播磨−二宮−加茂正で加茂正のドリブル・シュートで2−0。その6分後、相手にPKのチャンスがあったが津田が防いだ。疲れの出始めたコリンシアンズに対して、全関東の攻撃はさえ、加茂兄弟のパスワークに二宮が絡んでフィニッシュは加茂健(兄)で3−0。終了近くに右からのクロスを加茂正がシュートして4点目も加えた。
 長い旅の後、強行スケジュールで試合に臨んだ相手を、練習十分な日本側が迎えうったのだから大勝も当然といえるが、なんといってもヨーロッパとの交流の少ない時期に、サッカーの母国の強豪クラブ(ロンドンでプロを支えたミッドウィーク・リーグに参加している)を相手にしての勝利だったから、1940年(昭和15年)の東京オリンピック開催(後に開催返上)を控えて、実力アップを計っていた日本サッカー界には大きな自信となった。相手チームのスミス団長は「こちらの不調もあったが、日本チームはまったく素晴らしく、ことにFWには絶賛を送りたい。われわれは完敗したが、決して不快ではない。日本チームが優秀なのを発見して喜んでいる。おそらく英国アマチュアの一流チームに遜色はないと思う」と語っている。
 称賛を浴びたFWがベルリンでも評価の高かった左の加茂兄弟とともに、慶応の右サイドのセットであった。彼らはすでにその前年の1937年、関東大学リーグで加茂兄弟やGK佐野、HB笹野などベルリン組の残る早大を5−1で破って、タイトルを奪回していたのだった。


型より入り、型を出る

 慶応のソッカー部が東大や早大に比べてスタートが遅かったことと、クラブの初期に浜田諭吉という理論家がいたこともあって、東大、早大に追いつくために、頭(理論)から入ること、練習も上達法を考えて、一つのスタンダードをつくって、その型の踏襲から入ったことは、この連載の『右近徳太郎』のところでも触れた。一見、型にはまったような攻撃、相手ボールを奪うとダイレクトパスをかわすスピード攻撃を、他のチームから「コリントゲーム」と酷評されながら成功していったのは、播磨幸太郎という特異な才能を持ったパスの名手と、二宮洋一という万能のCFがいたからだった。
 ハリ公の愛称で呼ばれた播磨――ボールを離す時期の読みにくいプレーメーカーは、今風にいえば、3・2・2・3のフォーメーション(当時は前の2・3を合わせてFWといい、その形からWフォーメーションといった)の攻撃的MFの右サイドを務め、右ウイングの篠崎とCFの二宮へのパス供給者だった。もともと、ドリブル突破から得点することも上手だったが、二宮の加入後は、巧みなスルーパスで、この俊足のCFを生かした。左の攻撃的MF小畑(後に東洋工業の中心となる)と左ウイングの猪股は、右サイドでつくったチャンスを決める役割が多く、小畑の第2列からの飛び出しは、攻撃の型の一つだった。この左サイドの猪股が卒業した後、渡辺が入り、その渡辺はハリ公の出た後、右のインナーを務めることになるが、彼ら攻撃陣の後方のHB(今でいう守備的MF、あるいはボランチ)には不動の笠原、高島、DFは石川(田中)両サイドのDFは加藤、宮川(石川)そしてGKは津田となっていた。運動量の大きいHBの笠原は、今でいうロングスローも得意で、ヘディングの強い二宮へのスローインは一つのチャンスだった。


播磨依存からの脱皮

 予科1年からレギュラーになり、予科2年のときに日本選手権(現・天皇杯)に優勝、1937年の予科3年でも天皇杯優勝、さらに関東大学リーグ優勝と、慶応の上昇とともに順調に力を伸ばしてきた二宮洋一は、本科(大学)1年、21歳のとき、対イズリントン・コリンシアンズ戦でもCFとしての評価を高めたが、この2ヵ月後の6月19日の天皇杯決勝で痛い敗戦を味わう。相手は早大。前年の関東大学リーグでは大勝していたが、この日は播磨幸太郎が急に発熱して欠場し、メンバーが変わったためだった。
「ハリ公がいなければ点が取れないのか」――二宮は、自分自身を責めるとともに、ハリ公からのパスをもらって点を決めるだけの自分からの脱皮を図った。1年学業を伸ばした播磨とのコンビは1939年(昭和14年)の3連勝まで続くが、二宮はすでに「点を取るための部品」ではなかった。1940年、ハリ公の卒業の後も、篠崎、渡辺、二宮、高島、尾池のFWは関東大学リーグで全勝。東西学生1位対抗でも関西学院大を3−0で破った。


23歳でストライカーでプレーメーカー

 私自身、12月のこの甲子園南運動場での対関学と翌年1月の朝日招待での関西リーグ2位の関西大(8−1)との2試合で二宮を見た印象を、今も忘れることはできない。関学のCDF庫元の背後からの強い当たりを受けながら、見事にスペースを生み出してゆくところ、後方に下がってボールを受けるかと見れば、右前のオープンスペースに走ってボールを受け、ドリブルでDFをかわしてシュートヘ持っていく速さ――23歳の大学最終学年の彼は、若さと老練を兼ね、ゴールゲッターであるとともに、プレーメーカーとなっていた。速さと正確さとは別に、コリントゲームと、型にはまった攻撃を批判されていた慶応は二宮洋一の成長によって、彼のキープやボールタッチでテンポや方向が変わるようになっていた。
 戦後、若い学生やOBを率いて慶応BRBの名で天皇杯の優勝を重ねたのも、彼がストライカーであるとともに、チームのリーダーとして試合の流れを変えるプレーをこのころから身につけていたからだといえる。
 日本サッカーのどん底期にも私は日本サッカーはいつかは世界のレベルに追いつくと信じていた。それは最盛期の二宮洋一という選手を見ていたからでもある。


★SOCCER COLUMN

鴨居にボールを吊って
 慶応在学中の二宮洋一は、学校の寮にいた。寮といってもさすがに慶応は、他の学校と違い一人ひとりが個室で、作りもしゃれたものだったが、彼の部屋を訪れた仲間は鴨居に吊り下げられたサッカーボールを見て驚いたものだ。ボールを高い柱から吊り下げ、ボールキックやヘディングの練習をする「ペンデル」という用具があり、日本ではデッドマル・クラーマー・コーチが来日してから普及した。そうした用具があることは、二宮も彼より年長のベルリン・オリンピック(1936年)代表から聞いたらしい。鴨居から吊るしたボールでは強いヘディングはできないが、部屋の出入りのたびに、小さくジャンプして頭でボールに触れる
のが日常生活の一つになっていた。
「イングランドはCFは最低でも5尺8寸(1メートル75)はある。僕はそれよりも5センチ低いが、ヘディングで負けるわけにはゆかぬ」とヘディング上達にも工夫をした非凡のストライカーの陰の努力が鴨居のボールにあった。

延長4回、170分の試合に勝った36歳
       0−1
       1−0
       1−1
       0−0
慶應BRB 5 0−0 3 東洋工業
(関東)   0−0   (中国)
       0−0
       1−0
       1−0

 これは第34回天皇杯決勝のスコア。昭和29年(1954年)5月25目、山梨県甲府市の県営球場で午後1時50分から始まったこの試合は、90分を終わって1−1。10分ハーフの延長となったが、これも2−2(合計3−3)。そこで、2回目の延長となったが、互いに無得点、さらに3回目も0−0、4回目の延長となって東洋工業は疲れで動きが止まり、慶応BRBの小林がこの前後半に1点ずつ決めて5−3で勝った。今のようにゴールデンゴールはなかった。36歳の二宮洋一は若いOBや現役とともにフル出場、2回目の延長後半に1ゴールを挙げている。


(月刊グラン2002年10月号 No.103)

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