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ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫

卓越した技術を持つ戦中派

 1925年(大正14年)生まれの岩谷俊夫は、私より1学年下で、デットマール・クラマー(2001年3〜6月号に連載)と同年輩。幼稚園のころからボールに親しんでいた彼は、そのころのプレーヤーとしては卓越した技術を持ち、日本代表として昭和20年代に活躍。その後、協会の技術委員として、東京オリンピックにつながる若手指導者、長沼健、岡野俊一郎たちの成長に力を注ぎ、また当時、全国高校サッカーを主催していた毎日新聞のスポーツ記者として各地の高校指導者を励まし続けた。彼の労作になる『全国高校サッカー40年史』(毎日新聞社刊)は埋もれようとしていた歴史を掘り起こし、自らの少年指導の体験からまとめた『サッカーの教え方、学び方』(毎日新聞社刊)は、いまなお技術指導の名著となっている。不幸にして病のために坐止威の若さで去ったが、その生涯はまさにサッカーそのものだった。


小学生のころに有名人

 古いサッカー人なら御影師範の名を知らぬものはない。高校サッカー選手権の年譜を眺め、歴代優勝チームの項でその名の多いことに驚くだろう。この御影師範の付属小学校はもちろんサッカーが盛んで、休みの時間、体育の時間、放課後にボールを追う少年の姿が常に見られた。
 幼稚園のころからボールを足で扱うことに興味を持っていた岩谷俊夫が、この小学校に入ってからぐんぐん上達したのは言うまでもない。彼が6年生のころには後に日本代表となった和田津苗(灘中−関西大)木村正年(甲陽中−関西学院)とともに“付属の三羽烏”は、近隣ではちょっとした有名人だった。
 神戸一中の3年生からレギュラー、4年生のとき明治神宮大会で優勝、5年生でキャプテンを務め、橿原神宮大会と明治神宮大会の二つの全国大会に優勝した。
 彼のポジションはWMシステムで、インナーと呼ばれた、いまの攻撃的MFだった。
 足と腰がしっかりしていて柔らかく強い右足首を使うボールタッチは精妙で、相手の構えを見抜いて、抜いて出るドリブルは誠に鮮やかだった。
 神宮大会の準決勝で対戦した青山師範(3−0)は、太田哲男さん(元・教育大監督)たちのいた大型で超中学級と言われた強チームだったが、その試合でエリアの外から内へ、2人をドリブルでかわしてシュートを決めた彼の姿を、いまでも思い出す。
 彼が5年生であった1942年(昭和17年)秋までは、前年の日米開戦にもかかわらず、スポーツの全国大会なども行なわれていた。しかし、早大に入った1943年(昭和18年)の秋には大学リーグはなく、その復活は1946年(昭和21年)、大戦終結の翌年まで待つことになる。その復活した関東大学リーグで岩谷は早大のプレーメークをし、自らゴールを決めて2連勝。東西大学一位対抗にも2年連続優勝した。自陣からボールを持ち出し、仲間に渡し、それを受け取り、相手をかわしてシュートを決める彼は関東大学リーグのナンバーワンのスターだった。


アジア大会の鋼メタル・ゴール

 1951年(昭和26年)の第1回アジア大会は岩谷たち戦中派にとっては、初の公式国際試合だった。二宮洋一監督兼主将らとともに、初めての酷暑と乾燥気候の中での試合でイランとの第1戦を引き分け、再試合で2−3で敗れ、アフガニスタンに2−0で勝って3位となったのが精いっぱいだった。二宮監督の報告には「国際試合の経験不足と未知の土地での試合に対する準備不足」が大きかったことを挙げているが、この対アフガニスタン勝利の2ゴールも岩谷がドリブル突破で挙げたものだった。
 彼はこの3年後の1954年(昭和29年)のあのワールドカップ・スイス大会予選、日韓第2戦にも出場し、2得点している。
 彼の代表としての最後の試合は、メルボルン・オリンピック予選の対韓国第2戦。第1戦を2−0で勝利した後だったが、ウイングの鴇田を欠いて攻めの起点をつくれず、相手のロングボール戦法に押し込められて、持ち味を生かせずに終わった。1勝1敗、得失点差も同じで抽選となったが、その抽選に主将として立ち会ったのは彼だった。


記者とコーチの二つの仕事

 アマチュア選手だった岩谷俊夫の本業はスポーツ記者。共同通信社から毎日新聞大阪本社に移り、南部忠平部長(故人)のもとで運動部記者として働いた。毎日新聞は1917年(大正7年)の第1回日本フートボール大会以来、サッカーとラグビーの高校選手権大会を主催していたから、彼を得たことは会社にも大きなプラスだった。現場にマメに足を運ぶ彼は、高校の指導者にとっても頼れる相談相手だった。中学生のころから、ゲームの展開を下級生に説明することが上手だった彼は、記事を書くことでより分析力を高め、平易に語る技術を身につけていった。しかし、その一方で、日本協会の竹腰重丸、川本泰三といった技術指導委員たちは彼の指導力にも目をつけていた。
 1964年(昭和39年)の東京オリンピックの4年前からデットマール・クラマーを呼び、日本代表の指導を彼に委ねたが、そのクラマーも岩谷の人柄を「最適任コーチの一人」と見ていた。“東京”に向かう代表チーム全体の若返りを計って、30代の長沼、岡野の監督、コーチのペアとなったときも、岩谷俊夫は彼らをバックアップし、ベルリン時代の長老たちと若い指導者をつなぐパイプとなった。この記者と指導者の二つが、彼の短い生涯の後半生の業となるのだが、日常の仕事をこなしながら、1962年(昭和37年)に高校選手権の40周年を記念して『全国高校サッカー40年史』を完成させたことは、誠に驚きだった。
 東京オリンピックの翌年、いち早くスタートした神戸少年サッカースクールも、彼のようなコーチがいたからこそであった。そうした少年指導への彼の蓄積は、毎日新聞の紙面での連載『サッカー教室』となり、1967年(昭和42年)『サッカーの教え方、学び方』の出版となる。
 2人の息子にも優しい父であった彼の指導は、大きな声で叱りつけることがないので、父兄の聞からは「もっと厳しく」との声も出たが、時間とともに、子供たちがコーチに集中し、サッカーに集中していくのに納得した。
 若くしてサッカーの技を身につけ、いまで言うゴールを奪うMFとなった彼は、大戦中のブランクのために世界の舞台には立てなかったが、サッカーを十分に理解し、それを自分より若い仲間に伝えることに生きがいを見いだしながら、メキシコ・オリンピックの翌年に彼を襲ったガンのために、アッという間に世を去ってしまった。
 それは彼がわずかな時間をさいてコーチに出かけた浦和南高校イレブン――永井良和や彼の長男たちが、高校三冠を達成して1ヶ月と少し後だった。


岩谷俊夫・略歴

1925年(大正14年) 10月24日、神戸市灘区御影に生まれる。
1932年(昭和7年) 御影師範付属小学校に入学、低学年のころからサッカーに親しむ。
1938年(昭和13年) 神戸一中に入学。ア式蹴球部(サッカー部)に入り、4年生のときに明治神宮大会優勝、5年生(主将)のときには橿原神宮大会と明治神宮大会の二つの全国大会に優勝した。
1943年(昭和18年) 早稲田高等学院に入学、ア式蹴球部に入部。
1945年(昭和20年) 7月、兵役、8月には病気のため除隊。
1946年(昭和21年) 早稲田に復学、秋の関東大学リーグに優勝、東西大学1位対抗でも神戸経済大を破り大学の王座に就く。
1947年(昭和22年) 関東大学リーグに優勝。東西大学1位対抗でも関西学院大を破って連続学生王座に。
1948年(昭和23年) 早大を卒業、三共製薬に入社したが秋に退社。11月に共同通信(大阪)に入り記者に。
1951年(昭和26年) 2月、第1回アジア競技大会(ニューデリー)の日本代表。3位となる。
             川本泰三の呼びかけに応じて大阪クラブを結成、天皇杯準優勝。
1952年(昭和27年) 10月、共同通信を退社し、毎日新聞大阪本社へ。
1954年(昭和29年) 3月、ワールドカップ・スイス大会予選、日韓戦第2戦に出場。5月、第2回アジア競技大会(マニラ)に日本代表として参加。
1956年(昭和31年) 6月、メルボルン・オリンピック予選対韓国戦で、日本代表チームのキャプテンを務める。1勝1敗、抽選勝ち。ただし、メルボルンでの本大会へは自身は不参加。
1960年(昭和35年) 第2回アジアユース大会の日本代表監督に。
1962年(昭和37年) 『全国高校サッカー40年史』(毎日新聞社)を編集、出版。
1964年(昭和39年) 冬の東南アジア遠征日本代表チームの団長を務める。このチームの監督は長沼健、コーチは岡野俊一郎。そのまま2人が東京オリンピックの監督、コーチとなる。
1965年(昭和40年) 4月開校の神戸少年サッカースクール、10月に開いた大阪スポーツマンクラブ少年サッカースクールの主任コーチに。
1966年(昭和41年) 6月、神戸一中、神戸高校サッカー部史『ボールを蹴って50年』を発行。
             11月、毎日新聞に『サッカー教室』を連載。
1967年(昭和42年) 新聞紙上に連載して好評だった『サッカー教室』をまとめ、4月に『サッカーの教え方、学び方』(毎日新聞社)を出版。
1968年(昭和43年) 2月、毎日新聞社東京本社に転勤。
1969年(昭和44年) 4月、肺の異常を認め、6月11日、国立がんセンターに入院。
             7月31日退院。10月17日再入院。12月に手術し、いったんは帰宅。
1970年(昭和45年) 1月の全国高校サッカー選手権で、自分が指導した浦和南高の優勝と長男・省吾の活躍を病床で聞く。
             1月8日、入院。3月1日、永眠、44歳7ヶ月の生涯を閉じた。


★SOCCER COLUMN

先にくじを引いて下を向いた韓国側
 1勝1敗、得点2、失点1――1956年(昭和31年)メルボルン・オリンピックの予選は2試合の結果、抽選となった。後楽園競輪場特設グラウンドの中央、センターサークルの中心で松丸貞一・日本協会理事が頭上に高く上げた箱の中に紙片が二つ入っていた。一方は白紙、一方には「VICTORY」と書かれていた。
 まずジャンケンで日本側が勝ち、主審トロンケのコイントスで韓国がくじを先に引くことになった。引いた金主将は指を鳴らしてチェッと小声で言い、厳団長はうつむいた。その表情から岩谷主将は、勝ったと思った。竹腰重丸団長が引いた。取り囲んだカメラマンのフラッシュが明るく照らした。
 この模様を見ていたスタンドの記者席からは、すぐにはどちらが勝ったのか分からなかった。
 両チームの代表が握手を交わして、スタンドの方へ歩き出したとき、カメラマンの一人が日本ベンチの方へ走り出し「勝ったゾ」と叫んだ。戦後初めてのオリンピック本大会出場が決まった。
 いまなら“勝ち”を引けば躍り上がるところを、岩谷キャプテンも竹腰団長も、そうしなかったのは、敗者へのいたわりであったかもしれない。

9試合で70−0
 1942年(昭和17年)夏、橿原競技場を中心に開催された学徒体育振興会主催の全国中学校体育大会は、それまでの新聞社が主催していた野球やサッカーなどの全国大会を文部省の支配下に置くためのものだった(結局1年で終わった)が、その大会で神戸一中は、

 ▽2回戦 6−0 東哀府立五中
 ▽準決勝 7−0 刈谷中
 ▽決勝  9−0 修道中

 で優勝。兵庫県予選、東中国予選と合わせ全9試合の総得点70、失点0の成績だった。
 これは、2歳年長の師範学校や実力ある朝鮮地方代表との試合を想定して練習を積んだこのチームが、技術的にも体力的にも同年齢の中学生相手では格段に強かったことを示している。秋の神宮大会では念願の朝鮮地方代表に勝ち(対培材中学3−0)以後は調子が下降し、準決勝は2−0(対仙台一中)決勝は2−2(対青山師範)だった。引き分けで両校優勝という結果に、このときのマネジャー田渕英三は「特筆大書すべき記録はつくったが、秋の明治神宮で引き分けた“不覚”も書き留めなければならない」と記している。


(月刊グラン2002年11月号 No.104)

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