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“自主”こそサッカー 日本代表・ジーコ監督

 日本サッカーが今日の“かたち”となるのに、その時々の大きな力となり、影響を及ぼした人を紹介するこの連載で、今回はこれまでと違って“いま”をつくる一人、新しい日本代表チームの監督に就任したジーコ、本名・アルトゥール・アントゥネス・コインブラ(49歳)です。

 グランパスの強力なライバルである鹿島アントラーズは、日本のトップクラスのクラブとなり、多くの代表を送り出して、サッカー界の一つの勢力となっている。
 その鹿島の成長に大きな力のあったジーコが、日本代表チームの監督となった。
 サッカーというスポーツの発展には、Jリーグの各クラブの各地域での浸透が大切なことはいうまでもないが、日本代表のオリンピックやワールドカップでの活躍は、サッカーの人気を盛り上げ、市民社会へのより広く深い浸透に直接かかわるものだ。
 この連載の流れからゆくと、いささか登場の時期が早い感じもあるが、この重大な仕事に当たるジーコを理解するため、彼の選手時代のプレーや、指導者としての実績や、そのサッカー観を勉強し、併せてそれがこれからの日本サッカーにどのような影響を及ぼすかを考えてみたい。


トヨタカップでのキラーパス

 ジーコがワールドカップに出場したのは1978年(アルゼンチン大会)82年(スペイン大会)86年(メキシコ大会)の3回。
 78年はすでに25歳で、ブラジルでも“白いペレ”として卓越した技巧で評価の高いプレーヤーだったが、当時の代表監督コウチーニョが力闘型を好んだ関係もあって、フル出場できず不本意な大会だった。それでも2次リーグの対ペルー(3−0)では、70分に交代出場して72分にPKを決めている。ストライカーのロベルトが倒された反則によるものだけに、仲間うちでFKをはじめ、彼のプレースキックは信頼されていたといえる。
 70年のワールドカップでブラジル代表はペレをはじめとする強力な攻撃サッカーで3度目の優勝を遂げたが、74年は攻めの逸材を欠いて守備的となり4位。78年も(私の目から見れば)いい選手がそろっているのに“ブラジルらしくないプレー”で3位に終わった。
 そうした流れのなかでブラジル代表は再生し、テレ・サンターナ監督の選ぶ攻撃指向のチームは、81年5月の欧州遠征でイングランド(1−0)フランス(3−1)西ドイツ(2−1)に連勝した。その中核がジーコだった。
 その年の12月、東京での第2回トヨタカップで南米代表のフラメンゴが、イングランドのリバプールを3−0で破った。リオデジャネイロの名門チームによる3ゴールは、キャプテン・ジーコの2本のスルーパスとFKから生まれたもの。ケニー・ダルグリッシュやR・ケネディらの黄金期リバプールは、ジーコのパスのタイミングをつかめずに敗れてしまった。
 28歳、充実期に入ったジーコの最も輝かしい年でもあった。


82年ワールドカップでの光彩

 82年ワールドカップ・スペイン大会では、当然、ブラジルは優勝候補の第1に挙げられた。1次リーグF組での3戦3勝は前評判どおり。オスカーとルイジーニョの2CDFとレアンドロとジュニオールの両サイドの4DFは、左右に大きく振られるときに不安があったが、4人のMFが強力だった。守備的なトニーニョ・セレーゾ、ドリブルもシュートもうまいファルカン、トップへと飛び出してゆく長身のドトール・ソクラテス、そして後方からの一発のスルーパスも、意表を突くフェイクパスも、ドリブルもシュートも万能のジーコがいた。FWは前年のゼ・セルジオが抜けたが、シュートのきくエデルと長身のセルジーニョがいた。
 2次リーグの対アルゼンチン戦はその力が存分に発揮され、新しくマラドーナを加えた78年チャンピオンを3−1で撃破。ジーコはエデルのFKのリバウンドを決めるとともに、2点目と3点目を演出した。
 次のイタリア戦でロッシの神がかり的なゴール奪取で3得点されて2−3で敗れたのは、誠に不思議だが、チームの調子のピークがいささか早すぎたのかもしれない。
 3度目のワールドカップ・メキシコ大会では33歳のジーコはケガに悩まされ、82年の“黄金のカルテット”は力を失っていたが、わずかな出場時間に見せたジーコのプレーは、多くの人を引きつけた。


ペレに次ぐブラジル代表での得点

 ブラジルでのプロフェッショナルとして1046試合で729ゴール、ブラジル代表89試合66ゴールというジーコの記録(ペレに次ぐ2位)は、彼がMFのパスの名手、攻撃の組み立て役として優れているだけでなく、フィニッシュそのものにも大きな力を持っていたことを示している。逆にいえば、若いうちから得点能力があったからこそ、攻撃の組み立てもうまかったともいえる。
 その彼はすでに指導者として、鹿島アントラーズのレベルアップに成功したことは知られている。技術の上達は反復練習から生まれる――は彼の信条の一つ。
 40歳を超えてJリーグの開幕試合での彼のボレーシュートも、FKの成功も、すべて反復練習によって培われたものだ。
 日本のサッカー界は93年のJリーグ創設以来、急速なレベルアップで世界を驚かせている。フル代表だけでなく、各年齢別の代表もアジアでトップに立ち、世界の大会でも活躍するようになった。しかし、体の面でアフリカ系のバネには及ばず、頑健さではヨーロッパ系に劣る日本選手にとって、体力アップは当然のことながら、技術力、ボールテクニックで優位に立つことが第1である。
 生まれながらのボールセンスを、反復練習で磨きをかけ、弱かった体をトレーニングと栄養補給で改良したジーコが、世界一流へとたどった道は、そのまま日本人プレーヤーにも通じるものなのだ。


試合は選手がするもの

 トルシエ前監督の「監督の意図するチームに合わせて選手を選び訓練する」という代表の強化方針は、もともと日本人にはなじみやすいやり方。学校の教育がそうだったし、スポーツでも学校のカラーがあった時代が長かったから、トルシエ流を不思議と思うものは少なかった。しかし、サッカーという競技は、実際は選手一人一人の判断が重要で、プレーヤーのイマジネーションと、判断力を伸ばすことが大切なのである。
 もちろん、試合をするために、チームのなかに約束事があり、取り決めはあるが、瞬時のプレーで情勢の変わるサッカーでは、選手の判断に任せる部分が大きいのが当たり前である。2002年ワールドカップのトルコ戦での失点は、CKのときでもゾーンディフェンスといった取り決めを守ったため、といわれているが、失点してから選手の判断でそれを変えたのでは手遅れになる。
 日本サッカーにとってのこれからの最も大きい課題――プレーヤーの判断力の向上と、技術の反復練習による上達というきわめて常識的ではあるが――それを実践してトッププレーヤーになったジーコが指導者となり、監督となって、日本代表に求めるのは、いいタイミングといえる。中田英、小野、中村、稲本を中盤に並べたのも、彼らが自分たちの判断で攻守を組み立ててゆくことを要求しているためだ。
 このことが日本サッカー全体にとっても影響し、サッカーはそれぞれの場でのプレーヤーの判断が重要なことが浸透してゆけば幸いなことだ。
 もちろん、これが効果を挙げるためには、さまざまな工夫も必要だが、しばらくは“管理”からジーコ流の“自主”に移る日本代表の変化と、その影響を皆さんとともに見続けたい。


ジーコ(ZICO)略歴
本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ(Arthur Antunes Coinbra)、身長172センチ。

1953年3月3日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。
1967年、フラメンゴ入り。
1971年7月、1軍デビュー。
1976年2月、ブラジル代表として初試合。
1978年、ワールドカップ・アルゼンチン大会出場。
1981年12月、第2回トヨタカップ優勝(対リバプール、3−1)。
1982年6月、ワールドカップ・スペイン大会に出場。
1983年、イタリア・ウディネーゼに移籍。
1985年、再びフラメンゴへ。
1986年、ワールドカップ・メキシコ大会に出場。
1989年12月、フラメンゴで最後の試合。
1990年3月、ブラジルの初代スポーツ庁長官となる(91年4月まで)。
1991年5月22日、日本リーグ2部の住友金属蹴球団に加入。同リーグ準優勝、得点王(21点)に。
1993年、Jリーグ開幕。住友金属は鹿島アントラーズとなって参加、この年の前期リーグ優勝。天皇杯は準優勝。
1994年7月、選手生活を引退、鹿島アントラーズのアドバイザーに就任。
1995年1月、リオデジャネイロにジーコ・フットボール・センターを設立。
1996年、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任。
1998年、ワールドカップ・フランス大会のブラジル代表テクニカル・コーディネーターを務める。
*ブラジルでの選手記録は1046試合に出場して729ゴール。このうちブラジル代表で89試合66得点(ペレに次いで2位)。
*78、82、86年ワールドカップ3大会で13試合に出場、5得点。
*Jリーグ通算23試合出場14得点、カップ戦20試合7得点、天皇杯4試合2得点。


★SOCCER COLUMN

ジーコがうらやましいと“ドトール”
 ジーコと同じ時期にブラジル代表で活躍したソクラテスは、医師の勉強をして“ドトール(ドクター)”のニックネームで呼ばれていたが、そのドトールはジーコのことを「パーフェクトなプレーヤー」と言い、あらゆる技術をやってのけるので、自分がうらやましく思っている選手だ――と言ったことがある。
 190センチの長身のドトールは、足も大きくてドリブルシュートも、PKもすべて右足のインサイドキックで蹴っていたから、172センチと小柄なジーコが、インステップでもインサイドでも、アウトサイドでも自在にキックするのを、いつも自分と比べて見ていたらしい。サッカーは体が大きいだけでもよいとはいえない。大きくないからこそ、大きくない足で、さまざまなキックができる。
 ジーコのプレーはその意味でも、日本選手の手本ともなる。

サッカー一家の末っ子
 ブラジルの有名選手はニックネームで呼ばれることが多い。ペレもそうだし、ドゥンガもカレッカもそうだ。サッカー一家の6人兄弟の末っ子に生まれたジーコは、アルトゥールの名を子供の頃“小さな”アルトゥールという意味で“アルトジーニョ”と呼ばれ、それがアルツジッコとなり、略されてジッコとなったという。
 ジーコの兄弟は長姉以外5人が男で、他の4人ともサッカーの選手だったが、プロの選手として有名になったのは三男のエドアルド・アントゥネス・コインブラ、通称エドゥーで、ブラジル代表にもなり、鹿島アントラーズの監督を務めたこともある。


(月刊グラン2002年12月号 No.105)

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