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攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)

 相手の攻撃の発端を抑え、自らパスを出してチームの攻撃展開を図り、時には飛び出してゴールを奪う。多様な仕事を持つMFは、現代サッカーの花形だが、1960年代の東洋工業の核となった小城得達もまた、攻撃と防御どちらにも力を発揮し、東京、メキシコの両オリンピックで栄光をつかんだ一人。“努力の人”と呼ぶ彼の航跡は――。

 小城得達は広島で生まれ育った。
 古くからサッカーの盛んな町だったから、広島大学付属小学校のときに、当然のようにボールを蹴り、サッカーに親しんだ。
 ただし、中学に進むと、クラブ活動は軟式野球部を選ぶ。ちょうど、プロ野球が1リーグからセントラルとパシフィック、いわゆるセ・パ両リーグとなったのが昭和24年(1949年)。スポーツ好きな少年のほとんどは、バットでボールを打った時代だった。
 彼よりも2歳下の釜本邦茂は、小学校のときソフトボールの強打者だった。小城は内、外野どこでも守ったという。それが高校へ入るとサッカー部へ。理由は付属高校には野球部がなかったからだった。
 その広大付属高1年生のとき、正月、西宮で開催された第37回全国高校選手権に出場して、1回戦で北海道の美唄工を3−0、2回戦で北陸代表の富山中部を2−1、準々決勝は北九州の島原商を2−1で破り、準決勝で大阪の明星に2−1で勝って決勝に進んだ。相手は浦和でもなく、藤枝東でもなく、予想外の強さを発揮した京都の山城――試合運びの巧みさから、広大付属高の勝ちとの見方が強かったが、1、2年生の多いこのチームは、山城の力に屈して1−2で敗れた。
 小城はこのときHB(いまのMF)で活躍した。川瀬という俊足の右ウイングがいて、彼へのロングパスが目立ったが、後に東洋工業(現・マツダ)のゲームメーカー(プレーメーカー)となる素地は、このころにすでに芽生えていたといえる。


アジア・ユース代表に

 小城よりも1歳上の杉山隆一は、このとき清水東高にいた。2年上の宮本輝紀は山陽高にいた。両チームは国体決勝で顔を合わせたが、第37回高校選手権には出場できなかった。
 この大会に出場した選手を中心に、国体で活躍したプレーヤーを加えて、第1回アジア・ユース大会(現アジア・ユース選手権)のメンバーを編成した。1年生の小城はまだ選抜されず、前述の杉山、宮本や広大付属校の大島、桑田たちが参加した。
 2年後、昭和36年(1961年)、第39回高校選手権で広大付属高は優勝候補に挙げられていた。1回戦は美唄工を9−0、2回戦は1年生・釜本のいる山城高を5−1で撃破した。しかし、準々決勝で秋田商の粘り強さに0−1で敗れた。タイトルには届かなかったが、小城は大会の優秀選手の一人となり、第3回アジア・ユースの日本代表に選ばれる。このときの監督は岡野俊一郎だった。


中央大学2年で天皇杯優勝

 高校を出て中央大学へ。早稲田や慶応でなく、中大に進んだのは、この大学のクラブの厳しさの中に身を置こうと考えたからだった。先輩、後輩のけじめや予想以上の厳格さの中で、2年目にはレギュラーとなり、昭和37年(1962年)5月、京都で行われた第42回天皇杯で優勝した。決勝の相手は長沼、平木、内野、川淵(現日本サッカー協会キャプテン)、鎌田、宮本征勝、保坂といった日本代表をそろえた古河電工だった。延長の末、岡光のゴールで栄冠をつかんだ。中大にはGKに片伯部、野村(後に日立)、あるいは桑原楽之(後に東洋工業)たちがいた。
 この大会での働きで小城は日本代表候補となり、東京オリンピックを目指す強化策のもとで体を鍛え、技を磨いた。
 高校のときに長いキックを駆使できるようになっていた。技術もあった。179センチと身長にも恵まれていた。しかし、代表候補に入るとまず、その体の違いを感じた。当たりの激しさも違っていた。足だけだと思っていたサッカーは、全身が強くなくてはいけないと知った。


ひたすらトレーニング 検見川合宿の成果

 デットマール・クラマーの指導を受けた日本代表は、昭和37年のアジア大会(ジャカルタ)や同年のムルデカ大会(マレーシア独立記念大会)で変革を見せたが、小城はまだそのメンバーには入れなかった。
 昭和38年(1963年)、東京オリンピック前年のリハーサルとして、南ベトナムと西ドイツを招いて、東京国際スポーツ大会が開催された。このシリーズの最終戦の対西ドイツ(京都)に、小城は日本A代表のMFとして出場。先制ゴールを挙げて、日本の勝利(4−2)に貢献した。
 彼が代表のMFのポジションを確実にするのは次の年、東京オリンピックの直前だった。この年の4月から東大・検見川グラウンドでの集中合宿の3ヵ月間を経て、彼は自分の体をつくり上げた。
 代表に加わった当初は、体育館のロープクライミングも満足にできなかった。腕立て伏せもほかの選手に比べると、回数は少なかった。「下半身に比べて上半身の発達が遅れていた」(長沼健・当時代表監督)
 検見川合宿は全体の練習とは別に、夜は指名された者が体育館でスペシャル・トレーニングを行った。しかし、彼は指名に関係なく、毎夜、体育館に現れてバーベルと取り組んだ。負けん気の強さ、地道な努力をいとわない彼の性格が、つらくはあっても、フィジカル・トレーニングを真剣に続けさせたといえる。大学ではすでにゲームメークの才を見せていた。正確に長いボールも蹴った。そして体が強くなった。


相手のキープレーヤーのマーク

 昭和39年(1964年)の東京オリンピックは、日本サッカーの命運がかかっていた。日本中が注目しているホームでの試合で、1勝も挙げることができなければ、当分、立ち直ることはできないだろう。それは昭和33年(1958年)の第3回アジア大会(東京)での失敗で、関係者は痛いほど知っていた。
 だからこそ、昭和34年(1959年)、ローマ・オリンピックの予選に敗れると、デットマール・クラマーを招き、毎年、ドイツを中心に欧州への練成ツアーに代表を送り出したのだった。かつてない強化に力を入れたことが、チームを構成する個々のプレーヤーの体力と技術と戦術力のアップにつながり、1次リーグでの対アルゼンチン戦の逆転勝ちにつながった。
 小城得達は9番を付けていたが、アルゼンチン戦での役割は相手のプレーメーカー、モーリをマークすることだった。前半の0−1から、後半9分に杉山のドリブルシュートで1−1。その後、再び1−2とリードされたが、川淵が釜本からのクロスをヘディングで決めて2−2。同点とされて浮き足だった相手に、日本は左から攻め、川淵のシュートをGKがはじいたのを、小城がシュートして3−2とした。キーマンをマークしながら、チャンスに飛び出す彼の攻撃意欲が生きた。
 1次リーグD組の第2戦で日本はガーナに不覚の敗戦(2−3)。準々決勝の対チェコも敗れた(0−4)が、南米の強豪に勝ったことで、メディアの賞賛を浴び、長いどん底時代からの上昇チャンスをつかんだ。
 このチャンスをとらえて、日本協会の若い力であった長沼監督、岡野コーチたちが、翌昭和40年(1965年)に、プロ野球以外では初の全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)をスタートさせる。
 中大を卒業した小城は故郷の広島に戻り、東洋工業に入って、このチームでゲームメークの力を発揮することになる。


小城得達・略歴1

1942年(昭和17年) 12月10日生まれ。
1949年(昭和24年) 4月、広島大学付属小学校に入学。
1955年(昭和30年) 広島大付属中学へ、クラブ活動は軟式野球部。
1958年(昭和33年) 広島大付属高校へ、サッカー部に入る(野球部がなかったため)。
1959年(昭和34年) 1月、第37回全国高校選手権に出場、決勝で山城高に1−2で敗れる。
1961年(昭和36年) 第39回全国高校選手権ベスト8。
             4月、中央大学に入学。この年の秋の関東大学リーグで中大が初優勝。
1962年(昭和37年) 京都での第42回天皇杯で中大が優勝、小城はMFで出場。同年秋、関東大学リーグで優勝。
          日本代表候補に選出され、デットマール・クラマー・コーチに会う。
1964年(昭和39年) 10月、東京オリンピックに日本代表として出場。対アルゼンチン戦で決勝ゴールを決めた。日本はベスト8に。
1965年(昭和40年) 3月、中大を卒業して東洋工業(現・マツダ)に入社。
             プロ野球以外での日本スポーツ界初の全国リーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」で東洋工業が初優勝。
1966年(昭和41年) 1月、第45回天皇杯で東洋工業が初優勝、2冠となる。66年度の第2回JSLで優勝(小城はリーグ得点王に)。
             12月の第5回アジア競技大会で、日本代表は銅メダルを獲得。


★SOCCER COLUMN

かつてはサッカーのご三家 広島、埼玉、静岡
 広島は古くから西日本でのサッカーの中心地だった。明治35年(1902年)に広島高等師範学校が創立され、その4年後には先輩格の東京高等師範学校(明治11年創立)の「運動会」に倣った撃剣(いまの剣道)、野球、蹴球(サッカー)が行なわれるようになり、明治40年(1907年)には東京高等師範のチームを招いて、紅白試合を行なったという記録もある。
 広大付属高校の前身である高師付属中学校でも、明治45年(1912年)にサッカーをするようになったが、同じころ広島一中にもサッカーが導入された。
 明治の末から大正の初めに中学校や師範学校に持ち込まれた広島のサッカーの技術が上がるのは、第1次大戦の捕虜の影響による(2001年12月号参照)。こうした歴史を背景に昭和11年(1936年)と同14年(1939年)に、広島一中は全国中等学校蹴球大会(現・高校サッカー選手権)に2度優勝、大戦直後の昭和22年(1947年)の第26回大会には広島大付属中学(現・広島大付属高校)が優勝していた。
 このときの広島大付属中学には、後に日本代表の監督となった長沼健(日本代表第8代会長)がいた。学校の制度が変わって旧制中学が「高校」となった次の第27回大会は旧・広島一中の鯉城高校が優勝、第31回は修道高校、第32回は東千田高校(旧・広島大付属中学)がそれぞれ高校チャンピオンとなった。と同時に、これらを中心とする学校から優れたプレーヤーを生み出し、東の埼玉、静岡とともに日本サッカー界の3大勢力の一つとなっていった。

対アルゼンチン 決勝ゴールは当たり損ね
 昭和39年(1964年)の東京オリンピックでの対アルゼンチン戦の決勝ゴール、小城得達が決めた得点は、会心のシュートでなく、当たり損ねてゴロンゴロンと転がったボールだった。
 相手ゴールキーパーがはじいてボールが目の前に来た。走り込んで、右のインサイドで蹴った。どういうわけか、サイドにしっかり当たらず、ソール(靴底)に当たった。スタッド(靴底の粒=スパイクというのは間違い)にひっかかったようで、ボールはゆっくりと転がった。ボールがゴールに入ってゆくのに、とても時間がかかった気がした――とは小城自身の話。
 そういえば、メキシコ・オリンピックの3位決定戦の対メキシコの釜本邦茂の1点目も、本人の話では自分のイメージと違って、ミスキックだったという。日本サッカーの運命を決めたゴールが当たりそこねだったとは――。


(月刊グラン2003年1月号 No.106)

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