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攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(下)

ワールドカップ開催成功の源泉、JSL

 2002年ワールドカップKOREA/JAPANの開催成功で、サッカーというスポーツがこの国の隅々にまで浸透した。
 10会場の立派なスタジアム、参加チームのための練習場の整備といった施設の充実や日本代表チームの強化、そして16強へ進出して、全国の人たちをテレビの前に引き寄せた成果の陰には、1993年(平成5年)の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の創設があったことを忘れてはなるまい。
「地域に根を下ろしたスポーツクラブ」といったJリーグが掲げた理念は、日本サッカーの発明ではなく、もともと世界中のスポーツの共通理念。その世界の常識からかけ離れたところにいた日本のスポーツ界、いわば「世界の非常識」のなかにあって、「常識」へ踏み出したのだった。しかし、そういった大転換の仕事は、日本の政治、経済の今日の改革と同じように易しいものではない。
 Jの創設にも大きな困難はあったが、それでも基盤となるチームや選手は、1965年(昭和40年)に始まった全国リーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」で、すでに27年の実績を積んでいた。この経験の上に立ってのJリーグのスタートだから、JSLはいわばJリーグの源流であり、従って2002年にワールドカップの楽しみと成功を生み出す源泉でもあった。


4試合で1万人 ささやかな大成功

 日本サッカーリーグの誕生のいきさつについては、前号でも、また、この連載でもたびたび触れているから、ここでは詳しく語ることはないが、東京オリンピックという大事業を成し遂げ、しばらく空白状態にあった日本のスポーツ界のなかで、サッカーが新しく企業8チームによる全国リーグをスタートさせたことは、メディアに好感され、大きな反響を呼んだ。
 1965年6月6日の開幕日、東京・駒沢競技場での2試合、日立本社−名古屋相互銀行、古河電工−三菱重工には4500人の観客が集まり、名古屋地区、刈谷での豊田織機―東洋工業には2700人、大阪のうつぼ競技場のヤンマー−八幡製鉄には2300人――と、ささやかなものだったが、メディアは大成功と報じた。
 これまで日本一を決めるのには、天皇杯のように1ヶ所にチームを集めて、ノックアウト・システムで試合をするのが、ほとんどの競技の常識(甲子園の全国高校野球のシステム)となっていたなかで、アマチュアが定期的にリーグを行なうのは、関東や関西といった地域の、例えば関西学生サッカーリーグといったものに限られていた(東京六大学野球リーグがよく知られている)。それを全国的な規模に広げるのも、海外の「常識」に倣っただけだが、これだけでも当時としては、どれだけの話し合いと経費の計算と、企業への説得が必要であったか……。


東洋工業の4連覇

 レベルの高いチーム同士の定期的なホーム・アンド・アウエーの試合によって、関東、関西だけでなく、ほかの地域のレベルを上げよう、それがまた、日本代表の強化につながる――とした目的の一つは初年度に現れ、東洋工業(現マツダ、サンフレッチェ広島)の優勝となった。
 すでに実業団全国大会や天皇杯に出場し、それぞれ準優勝の実績を持つこのチームは、1965年に小城得達、桑田隆幸、桑原楽之たち、オリンピック代表、代表候補を加え、優勝候補の八幡製鉄、古河電工を抑えて、12勝2分け0敗、勝点26で優勝した。(当時の勝点は勝ち2、引き分け1)
 GK船本、DF丹羽、桑原(弘)、今西、小沢、MF石井、小城、FW岡光、桑原(楽)、桑田、松本とレギュラーのうち、小沢通宏と松本育夫以外はすべて広島出身者で、彼らを主力にしたチームは、この年から4年連続のリーグ制覇に、また、天皇杯での3度の優勝に向かうことになる。
 会社に隣接したグラウンドを持つ東洋工業は、東京地区の他チームに比べると恵まれた環境にあったから、勤務が終わってからではあっても、練習を積むことができた。
 監督はGKとして日本代表にも入った下村幸男、総監督は慶応の黄金期のFW小畑実だった。1938年(昭和13年)から4年連続して関東大学リーグで優勝した二宮時代(2002年9、10月号参照)の左インサイド(攻撃的MF)であった小畑は、早いダイレクトパスの交換という慶応スタイルをこのチームに植え付けた。


攻守の切り替えの早さ

 世界のサッカー界が、ボールを奪われれば全員で守りの態勢に入り、ボールを奪えば攻めに出る「攻守の切り替えの早さ」を重視する時期にあったとき、JSLで東洋工業が最もこの意識が強く、また厳しいトレーニングによって、この動きを維持したことが優勝につながった。
 もちろん、プレーヤー一人一人の技術がそろっていたこともあるが、中大を卒業したばかり、いわばチーム内での新人であった小城が攻守の軸となったことが大きい。
 東京オリンピックの対アルゼンチン戦で相手のプレーメーカー・モーリをマークし、チャンスになればゴール前に詰めて決勝ゴールを奪った、守から攻への切り替えの早さを体得した彼は、味方ボールになれば、いち早く相手から離れてパスを受け、そこから得意のロングパスで、左の松本育夫、右の岡光竜三らのウイング(サイドアタッカー)や、あるいは第2列から飛び出す桑田隆幸へボールを送った。
 のちに日本代表の監督を務めたこともある石井義信は、相手のキーマンをマークする役をこなし、小沢通宏、今西和男(現サンフレッチェ広島強化部長)、桑原楽之、丹羽洋介たちは固い守りでGK船本とともに初年度の14試合を9失点で抑えた。
 初めのうちは8チームのうち上位と下位の力の差は大きかったが、2年目に明大から杉山隆一が三菱重工に、3年目に早大から釜本邦茂といったスターがヤンマーに加わり、各チームの強化も進んだ。JSLは日本サッカーのトップリーグとして、実力と華やかさを備えるようになったが、東洋工業はそのなかで1965年から4年連続して優勝した。
 優れた2人のサイドアタッカーやアクロバティックなシュートもうまいストライカー桑原楽之、突進して目のさめるシュートでゴールを奪う桑田隆幸たちの能力を生かすこのチームの速攻は、今に比べれば、技術の幅やボール扱いの習熟という点では劣り、ミスも少なくないが、常にゴールを目指す意欲があった。
 その東洋工業を倒すことに各チームは執念を燃やした。初めてこのチームを破ったヤンマーの釜本が「明日のスポーツ紙の1面は、この試合でしょうね」と言った。実際はそうはならなかったが、他のチームにとっては打倒東洋工業は、それほどビッグな目標。ピッチ上は活気に満ちていた。
 そうしたリーグの熱気と、年間20試合に及ぶ日本代表の強化試合と、合同トレーニングが、1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックの銅メダルにつながる。
 この大会で小城は、もっぱら守備にまわった。4DFの後ろにスイーパーを置いて5人、あるいは6人で守り、釜本、杉山のコンビを生かす速攻でゴールを奪う作戦は、酸素の薄い2500メートルの高地・メキシコに合わせた、ある意味での省エネ作戦でもあり、日本チームの特色を生かすものでもあった。
「68年の3月にメキシコで試合をして全力を出して動けば、どれほどこたえるかを実感したのがよかった」と彼は言うが、その策と一人一人の忠実な働きによる銅メダルだった。
 日本リーグの初期の活況とメキシコでの銅メダルで日本サッカーは一時代を築きながら、やがて低迷時代に入り、その低迷を脱する工夫が、Jリーグの創設に至るのだが、新しい試みの先頭に立った栄光のチーム、東洋工業とその中心プレーヤーだった小城得達は今、60歳。人生の円熟期を迎えた彼とサッカーのかかわりを今後も見たいものだ。


小城得達・略歴2

1967年(昭和42年) 1月の第46回天皇杯では、東洋工業は決勝で早大に敗れ(2−3)準優勝。
             第3回JSLは東洋工業が3年連続制覇。
1968年(昭和43年) 1月の第47回天皇杯で、東洋工業は2回目の優勝。
             10月のメキシコ・オリンピックで日本代表は銅メダルを獲得。
             第4回JSLで東洋工業は4年連続優勝。
1969年(昭和44年) この年から元日決勝(準決勝までは前年の12月に)となった天皇杯で、東洋工業は準決勝で敗退。
             1月の第2回アジア・クラブ選手権に初参加し、東洋工業は3位。
             第5回JSLでは三菱重工が初優勝。東洋工業は2位。
             10月、W杯メキシコ大会アジア予選に出場。
1970年(昭和45年) 天皇杯元日決勝で東洋工業は立教大を4−1で破って3度目の優勝。
             第6回JSLで王座を奪回、5度目の優勝。
             12月、第6回アジア大会で日本代表は4位。
1971年(昭和46年) 天皇杯元日決勝で東洋工業がヤンマーに1−2で敗れる。
             第7回JSLで東洋工業は6位。これ以降、低迷期に入る。
             9〜10月、ミュンヘン・オリンピック予選で日本代表は敗退。
1972年(昭和47年) 5月、ペレとサントスFC来日、日本代表と試合。小城は山口芳忠とともにペレをマーク(0−3)。
             7月、第6回ムルデカ大会(マレーシア独立記念大会)で日本は3位。
1973年(昭和48年) W杯西ドイツ大会アジア予選で日本代表は敗退。
1974年(昭和49年) 9月、テヘランでの第7回アジア大会で日本代表はC組リーグ敗退。
1976年(昭和51年) 2月1日、国立競技場でのブルガリア代表との試合を最後に日本代表を去る。
             日本代表として212試合に出場(うちAマッチ62)得点39(同11)。
             2月6日、JSL第18節で東洋工業の選手生活を終わる。
             JSL12シーズン、163試合出場、57得点、23アシスト。
1977年(昭和52年)〜1980年(昭和55年) 東洋工業監督
現在、広島県サッカー協会副会長、中国サッカー協会技術委員長、日本サッカーリーグ。マッチコミッサリー。


★SOCCER COLUMN

PKの名手・小城
 JSL2年目、1966年(昭和41年)のリーグ得点王に小城得達(14ゴール)の名がある。
 このうち10得点がPKによるもの。ロングシュートもパスも上手な彼は、ゴールキーパーと1対1のプレースキックという精神的な重圧のかかるPKにも強かった。右のサイドキックの強さと正確さが武器で、まず失敗することはなかった。
 1967年(昭和42年)に来日したブラジルの名門クラブ、パルメイラスに日本代表が勝った試合(2−1)の2点目は彼のPKだった。
 一度蹴ったあと主審はやり直しを告げたが、彼は2度目も成功した。当時の長沼監督は「PKのやり直しは蹴る側にイヤなものだが、さすがに小城は前と同じところへ決めた。あの気持ちの強さは大したものだ」と言った。
 今の延長後のPK戦が採用されている時代に、こういう選手がいれば監督も心丈夫だろう。

対ハンガリーの2度のハンドPK
 メキシコ五輪の準決勝で日本はハンガリーに0−5で大敗した。ハンガリーとは大きな力の差があったとの見方は強いが、必ずしもそうではない。前半0−1でこちらにもチャンスがあったあと、後半に2PKを含む4点を奪われたのだった。
 2PKはいずれも小城のハンドによるもので、マーク相手のドナイがボールを受けるとき、彼がノータッチにターンするのに密着していた小城の手に当たったもの。このドナイは、はじめ山口がマークしていたのを後半に小城に代えたのだが、それはともかく不運なハンドであった。
 試合のあとで、思わぬ大差に気落ちしている日本選手を前にクラマーは「私は皆にサッカーを教えたが、一つだけ教えていなかった。それはボールを手で触れてはいけないということだ」と冗談を言い、皆を笑わせた。この笑いから、やがて次の3位決定で勝とうという気持ちに変わるのだから、ハンドのPKの災いが福に転じたと言えるかもしれない。


(月刊グラン2003年2月号 No.107)

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