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日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(上)

 日本のサポーターは素晴らしい――2002年ワールドカップで、スタンドを埋めたブルーの大群が、日の丸を振り、歌い、声援する姿は、会場に独特の雰囲気をつくり、選手たちのプレーとともに感動を盛り上げ、海外にも評判となった。
 その日本代表のサポーターの元祖と、誰もが認めるのが鈴木良韶さん。愛知県知多郡東浦町緒川にある曹洞宗東光寺の住職で、「サッカー和尚」として知られている。
 サッカーがまだ、日の当たるスポーツでなかったころから、その魅力に取りつかれ、日本代表を応援するために、1962年(昭和37年)に「日本サッカー狂会」をつくり、仲間を集め、国立競技場や駒沢競技場などで、応援の幕を掲げ、日の丸を振り、ひたすら声援してきた。その40年間は、そのまま日本サッカーの40年であり、和尚さんの人生でもあった。


お寺で生まれ育って

 名古屋からJR東海道本線で南下し、大府で武豊線に乗り換えて、二つ目の駅が緒川。駅から西へ歩いて10分ばかりのところに「曹洞宗 東光寺」がある。
 鈴木良韶は1937年(昭和12年)に、ここで生まれ、育った。小学校3年生のときに第2次大戦が終わり、その4年後に東浦中学に進む。
 中学生のときには、さまざまなスポーツを楽しんだが、サッカー部はなく、このボールを足で扱うスポーツに出合うのは、刈谷高校に進んでからのこと。
 刈谷高は創設以来、英国流のスポーツ教育を重んじていて、野球ではなくサッカーを校技としていた。鈴木少年も、すぐにこの競技の魅力のとりことなる。単にボールを蹴り、試合をするだけでなく、世界で最も盛んなスポーツ、世界に通じる競技というところにも関心を持つようになる。
 大学は愛知学院。曹洞宗のお寺の後継者として、同宗派の経営によるこの大学へ進んだのは自然の流れだった。そして「刈谷高の卒業生だからサッカーができるだろう」と、創部されて1年そこそこのサッカー部に誘われ、喜んで入部する。
 好きなサッカーと勉学との楽しい日々は、父親・良通の死去でストップし、20歳の若さで東光寺の住職となる。大学は夜間部に変わることになり、サッカー部員としての試合出場は、ただの1回で終わってしまった。


池原謙一郎とともに“狂会”設立

 若い和尚さんとして檀家を回り、お経を唱える生活のなかでも、サッカーは忘れられない。
 1958年(昭和33年)5月に東京で行なわれた第3回アジア競技大会で日本代表の国際試合を初めて目にし、その敗戦に強いショックを受ける。世界に通じるサッカーを日本で盛んにするためにも、日本代表は国際試合で強くなければならない。そういう日本代表を応援しようとの気持ちが高まってきた。
 池原謙一郎氏(故人、1928〜2002年)との出会いは、そういう良韶和尚の大きな転機となった。
「雑誌に私のことが載ったのです。サッカー好きの和尚がいるとね。この坊主頭でヘディングしたり、ボールを蹴ったりしている写真を掲載してくれた。それを見て、池原謙一郎さんから便りをもらったのです。見ず知らずの私にね」
 1928年(昭和3年)生まれの池原さんは造園の専門家で、日本住宅公団の緑地課長をしていた。そして、また公団のサッカー部の顧問でもあった。
「1962年12月9日に後楽園競輪場で、三国対抗サッカーの第1戦、日本代表対スウェーデン選抜が行われたときに、池原さんは彼のサッカー部の仲間と一緒に応援に来た。そこに私も合流した。応援するのに、何かアピールするものが必要と考えて、幕を作って持っていった。それに“日本サッカー狂会”と書いていたのです。会の名前をどうしようと話し合ったとき、池原さんが『この“狂会”がいいじゃないか』と言い、“日本サッカー狂会”が生まれました」と和尚はその出会いを振り返る。
 日本サッカー界は1958年の第3回アジア大会での敗退と、1960年(昭和35年)のワールドカップ・チリ大会アジア予選、対韓国戦での敗戦の後、1964年(昭和39年)の東京オリンピックに向かって代表の強化に懸命だった。西ドイツから招いたデットマール・クラマーの指導によって、少しずつは進歩していた。
 この三国対抗は、ソ連のディナモ・モスクワとスウェーデン選抜チームを招いて、日本代表との3チームによる対抗戦で、30代の若い長沼健が高橋英辰に代わって代表監督となっての第1戦目だった。スウェーデンとの試合はDFの連係ミスもあって1−5で完敗したが、第2戦の対ディナモでは、チスレンコ(62年W杯代表)などスター揃いのディナモと接戦を演じた(2−3)。最終戦のディナモ対スウェーデンはスタジアムが満員となり、いい試合には人が集まることも証明したが、日本サッカー狂会にとっても、日本のサッカー会場に初めて横断幕を掲示して、わずかな人数ながら声援を送った元祖サポーターの記念すべき第一歩だった。


「ニッポン、チャ、チャ、チャ」のリズム

 それからは人気のないスタンドで日の丸を振り、横断幕を掲げて日本代表を応援する人たちが見られるようになった。
「国立競技場のバックスタンド正面が私たちの席でした。スタンドがガラガラだったから、集まりやすかったですね」
 ただし、東京オリンピックのようなビッグイベントは、入場券の入手が難しく、集まって応援するわけにもいかなかったが、和尚さんは駒沢競技場で自家製の横断幕「WELCOME WORLD FOOTBALLER JAPAN FOOTBALL ENTHUSIASTS(歓迎、世界のフットボーラー、日本サッカー狂会)」を飾り、また自分のカメラで撮ったテレビ画面の写真を日本協会に送り、機関誌に掲載してもらうなどアピールを続けた。
 集まって声援するのに、いいやり方はないか、高校野球のようにブラスバンド付きで誰かの音頭で3拍子の拍手をするのではなく、サッカーらしいものを――ということから生まれたのが「ニッポン、チャ、チャ、チャ」のリズムだった。
 1972年(昭和47年)にペレとサントスFC(ブラジル)が来日して、国立競技場で満員の観客の前で日本代表と対戦したとき、バックスタンドとメーンスタンドに分かれて陣取った狂会会員たちの「ニッポン、チャ、チャ、チャ」が周囲にも波及し、大きな反響を呼んだのはうれしかった――と和尚。
 サッカーの楽しみは「観戦」だけでなく「参戦」し、どちらかのチームを応援し、歌い、手を叩くことで、余計にそれが深まる――というのは世界共通の傾向だが、「ニッポン、チャ、チャ、チャ」はその後しばらく、国立競技場に独特の雰囲気をつくりだすことになった。
 日本代表の応援とともに和尚は、東京オリンピックの翌年に、まず少年サッカースクールを自分たちの周囲でスタートし、4年後にスクールではなく、子供も大人も楽しめるクラブをと「東光フットボールクラブ」を始めた。東光は自らのお寺の名、クラブのエンブレムに「卍」をあしらった。


鈴木良韶・略歴

1937年(昭和12年) 4月1日、知多郡東浦村(現・東浦町)緒川に生まれる。
1943年(昭和18年) 緒川小学校入学。
1945年(昭和20年) 同小3年生のとき、第2次大戦終結。
1949年(昭和24年) 東浦中学へ進学。野球をはじめ、さまざまなスポーツを楽しむ。
1952年(昭和27年) 刈谷高校に進み、初めてサッカーに親しみ、世界に通じるスポーツの魅力に取りつかれる。
1955年(昭和30年) 愛知学院大学に進学。創部して間もないサッカー部に入る。
1956年(昭和31年) 父・良通死去に伴い、跡を継ぎ、寺の仕事に。大学も夜間部に変わる。
1957年(昭和32年) 20歳で住職に。
1958年(昭和33年) 5月、東京で開催された第3回アジア競技大会のサッカーを観戦(初の国際試合を見る)。
1962年(昭和37年) 12月9日、東京の池原謙一郎氏とともに「日本サッカー狂会」を設立。同日、後楽園競輪場で行われた三国対抗、日本対スウェーデンに横断幕を掲示し、日本代表を応援。
1964年(昭和39年) 10月、東京オリンピックのサッカー競技で日本代表を応援。また、日本対アルゼンチン戦の同点ゴールのNHKテレビ画面を撮影して、日本協会の機関誌に投稿するなど、積極的に発言し始める。
1965年(昭和40年) 日本協会(JFA)の機関誌51号に『日本サッカーを発展させるために』という提案を「日本サッカー狂会」を代表して池原謙一郎、鈴木良韶の2人の名で投稿、反響を呼ぶ。11月、「狂会」の会報『FOOTBALL』を創刊。
1966年(昭和41年) 東浦町で東浦少年サッカースクールを始める。
1968年(昭和43年) 日本代表チームはメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得し、サッカーの人気が高まる。
1970年(昭和45年) 東浦町の緒川小学校をホームとする東光フットボールクラブを設立。小学生から大人までのクラブを目指す。
1972年(昭和47年) ペレとサントスFCが来日。国立競技場での日本代表との試合のときに「狂会」はバックスタンドとメーンスタンドに分かれて、「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声援をして、日本が勝利。
1978年(昭和53年) ワールドカップ・アルゼンチン大会を観戦。和尚にとって初めてのワールドカップだった。
1980年(昭和55年) 12月、日本代表のワールドカップ・アジア予選を応援するため、初めて香港まで出かけて声援する。
 現在、日本サッカー狂会・幹事長、東浦町体育協会サッカー部部長、東光フットボールクラブ監督、東浦町文化協会・切手クラブ会長。


★SOCCER COLUMN

初の海外応援は三人 
 日本代表の応援に出かけるようになったのは、ワールドカップ・スペイン大会(1982年)のアジア予選・香港トーナメント。1980年(昭和55年)12月22、26、28、30日の試合で、日本はシンガポール(1−0)中国(0−1)マカオ(3−0)北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国、0−1)と戦って、2勝2敗で敗退した。
 当時の代表には戸塚哲也、風間八宏、金田喜稔たちがいて、監督は現・日本協会キャプテンの川淵三郎だった。“狂会”からの参加者は鈴木、後藤健生ともう一人の三人だけだったという。
 1998年(平成10年)のフランス大会には日本から何万人ものブルーがトゥールーズやナント、リヨンに押しかけたのに比べると、まさに隔世の感――というのが和尚の感想。
 このときの仲間の一人、後藤健生は後に“狂会”の主力となって発展を支え、また現在は第一級のサッカージャーナリストとして、執筆やテレビ出演で活躍している。

会員の投稿による会報
 1962年12月9日に創立した“日本サッカー狂会”は、現在の会員数71人(会報110、111号の会員名簿による)。
 会員の中には別記、後藤健生やサッカー記者の長老、牛木素吉郎、栃木県協会副理事長の奥澤浩、スポーツアナリスト・田村修一、滝川第二高校の黒田和生監督、神戸FCの岡俊彦コーチといった人々もいる。
 2002年のワールドカップをはじめ、現在の日本代表の試合のスタンドはいっぱいで、入場券は入手困難のありさま。
 日本代表を応援し、スタンドを盛り上げるという第一の目標は達成した感があるが、会員たちは地域でサッカークラブを運営しているものも多く、その会員の投稿によるユニークな会報での交流を楽しんでいる。
 この会報は1965年(昭和40年)11月23日の創刊以来、年3、4回を目安に、足かけ28年、2002年末までに114号を発行している。会の維持40年、会報発行28年110冊余、日本サッカーの歴史のなかでの“狂会”の特異な歩みは今後も注目される。

*発行者 日本サッカー狂会(鈴木良韶) 〒470−2102 愛知県知多郡東浦町緒川屋敷1区71
*編集、印刷 畦地浩 〒473−0924 愛知県豊田市花園町一本木11−32


(月刊グラン2003年3月号 No.108)

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