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日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(下)

市民スポーツクラブの運営

 1964年年(昭和39年)の東京オリンピックで、日本代表が南米のサッカー大国・アルゼンチン代表を破って、サッカー界は元気づいた。
 デットマール・クラマーの「試合終了のホイッスルは次の試合開始のホイッスルでもある」の名言通り、日本サッカー協会は長沼健、岡野俊一郎たちの若い力によって、企業チームによる全国リーグ「日本サッカーリーグ」を発足させた。一方、関西では加藤正信ドクターを推進力に、少年サッカースクールがスタートし、少年期からボールに親しませる活動が始まり、全国的な広がりをみせた。
 28歳の鈴木良韶は神戸まで出かけて加藤ドクターに会い、少年サッカースクールを開くことを勧められ、1966年(昭和41年)に東浦少年サッカースクールを始めた。“和尚さんのサッカースクール”はメディアでも取り上げられて評判になったが、3年後、サッカースクールではなく、サッカークラブを――ということで「東光フットボールクラブ」を創立した。
 1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックで日本代表が銅メダルを獲得して、国内でもサッカーの人気は高まっていた。しかし、2年後の1970年(昭和45年)のワールドカップ・メキシコ大会のアジア予選は、釜本の病気欠場もあって日本代表は敗退し、次の1972年(昭和47年)のミュンヘン・オリンピックの予選も突破できなかった。東京、メキシコの2度のオリンピックに向かって、一握りの代表候補を強化した策は成功をみたが、その次の世代の代表育成は足踏み状態だった。日本サッカーリーグは全国的なレベルアップや競技人口の拡大に大きな力となったが、世界に伍して戦うトップクラスのプレーヤーを次々に生み出すまでには至らなかった。
 そうしたトップの盛衰とは別に、草の根ともいえる少年層への広がりはとどまることはなかった。それは東光クラブのように、各地域の愛好者が地道な努力を重ねた成果だった。


海外への目を開き、足を伸ばす

 サッカー人口の増大とともに、海外から高いレベルのチーム、名選手が来日するようになり、国内にいながらスターチーム、スタープレーヤーを見る楽しみが増えた。
 1968年にイングランドからアーセナルが来日し、長い伝統を背景に、第3期黄金時代へ向かう彼らのプレーに、本場のプロの迫力を満喫した。
 1972年には“王様”ペレとサントスFCがやってきた。“狂会”の「ニッポン、チャ、チャ、チャ」が反響を呼んだのもこのときだが、ペレのビューティフル・ゴールは勝敗とは別の感動を呼んだ。
 刈谷高校のころからボールを蹴る楽しさとともに、サッカーが世界に通じるというところに魅力を感じていた良韶和尚の“世界”への思いが深まるのも、また自然の成り行きだったろう。
 1977年(昭和52年)の英国旅行は、25年間も続いた2人のペンフレンドを訪ねるとともに、本場のプロサッカーに接する50歳の初体験だったが、年を追って海外へ出かける回数が多くなった。
「何回出かけたか、何ヶ国へ行ったか数えきれない」とご本人が言うほど、ワールドカップはアルゼンチン(1978年)メキシコ(1986年)フランス(1998年)大会を観戦したが、その予選やオリンピックでの代表の応援のために、アジアの全地域にも足を伸ばした。仏跡巡礼もあり、こと戦跡での追悼法要の旅もあり、さらにはボランティア活動で東南アジアの子供たちに学資を贈る里親としての激励もある。それらの国々でサッカーのグッズを見れば持ち帰った。こちらからは、まず東光フットボールクラブのペナントをはじめ、日本のサッカーグッズをお土産品に持っていった。


本場のクラブでVIP待遇

 行く先々でサッカーの話をすれば、世界中で大抵は仲良くなれることは、多くのサッカー人の経験するところだが、和尚はそうした旅の経験を“狂会”の会報『FOOTBALL』に寄せている。鋭い観察眼と克明な描写は、持ち帰ったグッズのデザインなどとともに、サッカーを通して世界と付き合う楽しさを伝えてくれる。1977年11月号の会報には、2人のペンフレンドを訪ねた『イングランドの旅から』が掲載されている。その旅で和尚は、ジーン・バーフォードさんとその夫の計らいで、3部のプリマスの試合(対プレストン・ノースエンド)を見たとき(ついでながらプレストンはかつての大スター、スタンリー・マシューズのいたクラブ)この売店で一人で1万5千円もクラブのグッズを買ったら、一人の売り子では時間がかかり、後ろに長い列ができて、ついに「ヘルプ」と叫ぶ話を書いた。
 また、クラブの役員に東光フットボールクラブのバッジやペナントを渡すと、試合後に別室に通され、VIP扱いになり、翌日の地元紙には25年ぶりのペンフレンドの訪問と和尚の試合評までが掲載されたことなどを述べている。帰りのロンドンの空港の税関では、バッグいっぱいのアーセナルのレッドのグッズを見て、笑ってフリーで通してくれたという。
 面白いのは1998年(平成10年)のワールドカップ・フランス大会――旅行社で手配できるはずの入場券が取れなかったため、トゥールーズでの試合はスタジアムではなく、体育館で映像スクリーンでの観戦となった。“元祖サポーターの本場での初応援”を撮影するためにやってきたテレビカメラが、それを写すはめになったことや、入場券の驚くべきプレミア価格などを“元祖”は淡々と記している。お金を払って試合を見るファンの目の細かさと確かさは、ジャーナリストのそれを、時に越えるものがあることを知ることにもなる。
 紀行文とともに120冊のアルバムに収められた写真もまた、ユニークな旅の記録である。


東光クラブ、東光ミュージアム

 旅から持ち帰るサッカーグッズや、早くから買い集めた雑誌類は増える一方となった。『サッカーマガジン』は創刊号からそろっているから900冊を超える。もちろん、月刊グランも……。
 こうした図書資料や、サッカー関連のスーベニア、さらにはサッカー切手などは、一般家庭よりは広いお寺であっても、次第にスペースがなくなる。現に、雑誌類は工場を持つ親類の宅に置かせてもらっているという。
 市民に根を下ろしたクラブをつくり、その活動を続けることも、実は日本では易しいことではない。最初のリーダーが元気なうちはいいが、組織づくりが遅れると、推進者の高齢化とともに維持が難しくなった例は少なくない。
 幸いなことに、東光フットボールクラブは元気な良韶和尚を手伝う長男の了三副住職が東光クラブのプレーヤーで、少年チームの指導者でもあり、次代の担い手として期待されている。
 1968年4月1日生まれ、2人の姉、友子(1963年生)京子(1966年生)の後に、父と同じ日に誕生した長男は、いや応なく小学生のときからサッカーを始めた。「寺の境内で野球をしたら、サッカーをしなさいと言われた」
 北部中学ではサッカー部に入ったが、愛知高校と愛知学院大学では部活でなく、東光クラブでプレーした。大学を出て、曹洞宗の大本山、永平寺での3年間の修行の後、東光寺に戻った。お寺とサッカーの両方の仕事を続けることは当然だが、より子供たちのためになる指導のためにも、専門のコーチやクラブの組織づくりを考えなければならないと思っているし、膨大な図書や資料の管理などについても、お寺という立場からも人に役立つ方法をも探っている。
 サッカーという市民、町民に根を下ろしたスポーツを通じて東光寺というお寺と鈴木父子が、これまでの業績の上にどのような発展を加えるのか想像するのは、誠に楽しみなことだ。


★SOCCER COLUMN

東光フットボールクラブと東浦町リーグ
 東光フットボールクラブは1970年(昭和45年)愛知県知多郡東浦町の緒川小学校をホームとし、小学生から大人までサッカーを楽しむのが目的で設立された。現在の会員数は130人(小学生70人、中学生20人、一般40人)。
 活動は土、日曜日で、一般の部は東浦町フットボールリーグ(8チーム)での試合が主な行事。試合会場は北部中学校グラウンドで、ここには1979年(昭和54年)に設置された照明があり、町の公認団体は3時間半7130円の料金で使用できる。
 東浦町は人口4万7千人。スポーツが盛んで、体育協会のなかにサッカー、野球、ソフトボール、剣道、柔道をはじめ、17の事業部があって活動しているが、恒常的にリーグ戦を行っているのはソフトボールとサッカーだけだという。
 古くからの人気スポーツの一つであるラグビーのトップリーグが創設されるのが来年からという日本のスポーツ界で、小さな町に早くからサッカーリーグが定着したのは、リード役の東光クラブや、体協サッカー部長の良韶和尚の先進性の表れといえる。
 
和尚さんのサッカー切手
 サッカーの切手については『サッカー百貨展 切手が語る世界のサッカー』(大修館書店発行)の著者、小堀俊一さんをはじめ、多くの収集家や権威もいるが、良韶和尚も、世界のサッカー切手を集める面白さにのめり込んだ一人。
 国別に仕分けした一般的なサッカー切手が、アフガニスタンからジンバブエまで合計5冊の大型アルバムに収められ、ワールドカップ専用が別に4冊もある。
 これらを一覧しようとすると、2日がかりになるだろうが、ともかく、世界中の国がサッカー切手を競って出していることが分かる。
 昨年の2002年大会は、韓国が本番のずいぶん前の誘致の時期から切手を発行し、4位の好成績になると、23選手のプレー姿とヒディング監督の姿を1枚1枚描いた24枚1シートをも出している。
 和尚の切手アルバムを見ると、世界各国のサッカー切手がいかに多彩であるかと同時に、日本のサッカー切手の総数がいかに乏しいかを知ることになる。


(月刊グラン2003年4月号 No.109)

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