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昭和初期のレベルアップ(6)

歴代ベストイレブンについて

 前号で「日本代表歴代ベストイレブン・アンケート」が掲載されている。私が選出したオールタイムのイレブンの中に、戦前、戦中派のプレーヤーが4人入っていた。イレブン(記載は12人)を世代別に見てみると、▽戦前のベルリン五輪組=川本泰三、右近徳太郎▽戦中、戦後=二宮洋一、鴇田正憲(メルボルン五輪)▽東京、メキシコ五輪組=釜本邦茂、杉山隆一▽ドーハ組=ラモス瑠偉、柱谷哲二▽シドニー五輪・2002年組=中田英寿、中村俊輔、中澤佑二、樽崎正剛――となっている。
 2年後の日韓共催大会が終わったときに選出すれば、おそらく2002年組がベストイレブンの主力となっているだろう(また、そうでなければ困る)。それだけ、伸びる可能性を持つ素材が揃っている。
 しかし、歴史上の名前、このクロニクルに登場してくるアマチュア期のプレーヤーからも選出し組み合わせてみたのは、彼らが現代の運動量をこなせるはずの体力の持ち主であるとともに、ゴールへの意欲が強く、ゴールを奪う技術を自らの工夫で積み上げたことにある。ゲーム中の役割を理解しつつ、チャンスと見ればゴールを狙う姿勢――たとえ相手DFが前にいても、勝負すべきときには自らつっかけてシュートへもっていく――そうした個人のゴールへの意欲が、チームの得点力アップにつながると思うからだ。


シュートの能力向上は

 現代のサッカーでの反則行為の横行、トリッピングなどの足だけでなく、手を使うホールディング、プッシング、シャツ・プリングなど――は、反則妨害される選手の技術、ボールキープやドリブルやシュート、あるいはそれに至るまでの動きを相当に減殺させてしまう。従って、特定の優れたストライカーやプレーメーカーがいても、集中マーク(プラス見つからない反則)でその力が発揮できる時間は、ずいぶん少なくなってしまう。
 そうした状況のなかでチームの得点力を高めるのは、各選手のシュート能力であり、ゴールへの意欲だと考えている。そしてそのシュート能力は、繰り返し練習すること、飽きることなくボールを蹴ること、その局面のイメージを描きながらシュートを反復練習することから生まれてくる。
 ボールを止めシュートし、GKの届かないところへ蹴る。そのタイミングの何分の1秒かの遅速が、ゴールか否かになり、勝敗につながり、仲間の努力の積み重ねを生かすかどうかにつながるし、ボールを捕らえた瞬間の、足の触れる角度の、ほんのわずかな差違が成否にかかわってくる。
 そしてこのことは、監督やコーチがいくら説いても、あるいは、どれだけ多くの本を読んでみても、あるいは科学的研究――例えばストイチコフのサイドキックの足の角度がどうだとかいう発表――があっても、結局はシューター自身、プレーヤーが自分でつかむ以外には、技術は物にならない。


個人の努力と工夫

 このマイ・フットボール・クロニクルの昭和初期の項に出てくる、第9回極東大会日本代表の竹腰重丸(たけのこし・しげまる)キャプテンは、「技術を高めること」を第一としていた。
 明治39年(1906年)生まれのこの人は、旧制大連二中の2年生のときに、サッカーの魅力にとりつかれた。いまのように幼少期からボールに親しみ、良いコーチの指導を受けられるという環境ではなかったが、ビルマ(現・ミャンマー)人の指導者、チョウ・デンに習い、加えて自ら工夫した練習――ときには月夜に(ナイター施設はなかった)ドリブルをしてボールの感触を確かめることもあった――で技術を高め、戦術を考え、先進国であった中国に追いつこうとした。そして、技術の修得に全身全霊を傾倒することを信条としていた。
 今年に入って、ある外国雑誌に掲載されたマテウスのインタビュー記事で、「自分が左足のキックを練習し、上達したのは、27歳になってから」というくだりを読んだ。
 90年のワールドカップで優勝した西ドイツ(現・ドイツ)代表のこのキャプテンを見て、当時インテル(イタリア)にいた彼に、ボールを扱う姿勢が美しくなり、それによってプレーが正確になった「セリエA」効果を見たのだが、その時期にマテウスが左のキックを練習したと今ごろになって知らされ、あらためて納得したのだった。
 日本にいる韓国代表たちには、「日本の環境がいいから、いまに日本と差がつく」と懸念している者も多い。しかし、技術の向上は「環境」だけでなく、その中にいるプレーヤーの「意欲」であることをマテウスは示している。
「温故知新」――クロニクルのなかで、今後こういうことも見ていきたい。


(週刊サッカーマガジン2000年5月17日号)

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