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ベルリン・オリンピック そのあとさき(4)

中1が小6に負けた

 昭和12年(1937年)、ベルリン五輪の翌年の4月、私は兵庫県立第一神戸中学校――略称・神戸一中、現神戸高校に入学した。入学祝いに日本犬(三河犬)の子犬を買ってもらったくらいだから、小学校時代から犬への傾斜はまだ続いていた。
 遊ぶといえば、ゴムマリのサッカーではあったが、神戸一中蹴球部には入る気はなかった。放課後の練習のために犬の世話ができなくなると思っていたからだった。
 学校では次の年に同じ神戸市の灘区へ校舎移転が決定していて、私たち1年生は「君たちが伝統ある生田川時代を知る最後の生徒だ」と上級生から吹き込まれた。木造の校舎は古いが格調があった。
 同じ1年5組の小兵仲間の一人A君が、早々と蹴球部に入ったのだが、4月末から5月に、1年生のチームが御影師範附属小学校の6年生と試合をして負けたことが知れて、クラスの笑いのタネにされた。
「附属小学校に3人ずば抜けて上手なのがいて、彼らのドリブルを止められなかった」と。その3人とは、岩谷俊夫(神戸一中、早大、日本代表)和田津苗(灘中、関西大、日本代表)木村正年(甲陽中、関学大、関西代表)彼らは小学生仲間で、ちょっとした有名人だった。


夏の全国大会準優勝

 1学期が終わるころ、中国大陸で日本軍がまた、中国軍と衝突した。7月7日の盧溝橋事件。満州のときと同じく、日本陸軍は不拡大方針という建前とは別に、どんどん部隊を中国に送り込んだ。8月に入ると、低学年は"出征"していく部隊を見送るために神戸港へ出かけることが多かった。遺骨を迎える日もあった。
 その8月上旬、全国中等学校選手権兵庫予選で、神戸一中が優勝し、2年ぶりに全国大会に出ることになった。レギュラー11人のなか、4、5年生に交じってただ一人、3年生の兄・太郎もいた。松永隆四郎をキャプテンとするこの年度は、先輩たちからそれほど評価されていなかったが、8月下旬の南甲子園での全国大会でも、1回戦で盛岡中(5−1)2回戦で函館師範(4−2)準決勝で東京の豊島師範(4−1)を破って、決勝に進出した。炎天下での年長の師範学校チームとの連戦で、体力を消耗してしまい、決勝では前半こそ2−1とリードしたが、後半5点を奪われ2−6で敗れた。
 部員でなかった私は、スタンドから疲れて動きの落ちたカーキー色を、埼玉の個人的な強さがズタズタにするのを見ていた。優勝旗が初めて箱根を越えて関東へ。児玉町の少年大会に見る通り、早くからサッカーが浸透し始めた埼玉がこの優勝で、いよいよ“王国”への道を歩むことになる。その中核となり、長く県協会理事長を務めた池田久は、このときの優勝メンバーだった。


播磨・二宮の慶応

 大学のサッカーにも異変があった。秋の関東大学リーグで慶応が優勝し、昭和8年(1933年)から続いた早大の連覇は4でストップした。
 ベルリン五輪のCFの川本泰三や同代表でパスの名手、西邑昌一を卒業で送り出し、いささか足踏みの感があった早大に対して、慶応は彼らの誇る攻撃陣、篠崎、二宮、猪俣に第2列の播磨、小畑をはじめ、HBの笠原、松元、FBの加藤、石川、宮川、GK津田のメンバーは前年とほとんど変わらず、また主力が予科3年(現・大学1年)で若い勢いがあった。オットー・ネルツの「フスバル」を自ら翻訳し、ドイツの技術、戦術を手本とした浜田諭吉をはじめ、昭和初期以来の積み重ねが、松丸貞一監督の下で開花。東大や早大よりスタートの遅れた慶応の黄金期がやってきた。
 関西でも、関学大を破って京都大が優勝した。京大は昭和5年に関西のリーグで初優勝し、昭和7年から9年まで3連覇。12年は5回目の優勝だった。東大と同様に旧制インターハイによって、高校からの俊英が集まったことが大きいが、初優勝キャプテン、赤川清(旧姓・西村。昭和5年第10回極東大会代表候補)は、「神戸一中出身者による技術アップが、京大の大きな力だった」と言っている。
 東西の大学王者の対決は、慶応が3−0で勝った。この試合の行なわれた12月12日の翌日、日本軍は中国・南京を占領した。


小学生から中学生へ(3)

昭和13年(1938年)
◇   ドイツがオーストリア併合
◎4月 世界一周の英アマ、イズリントン・コリンシアンに全関東学生選抜が4−0で快勝
◎6月 第3回ワールドカップ開催(6・4〜6・19 フランス)
◇7月 関西に豪雨、阪神大水害(5日)
◇7月 第12回オリンピックの東京開催返上を閣議決定
◎8月 全国中学校選手権大会(南甲子園)は16地区代表参加で開催。神戸一中が5度目の優勝
◎12月 東西学生1位対戦で関学3−2慶応。昭和4年の第1回以来、関西に初の学生王座(関東側9勝1敗)

※◎サッカー、◇社会


(週刊サッカーマガジン2000年6月21日号)

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