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兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)

 日本のサッカーが現在の“かたち”となるまでに、その時代に活躍し、後にまで大きな影響を与えた先人たちを紹介しようと始めた連載だが、今回は、ある兄弟選手を取り上げることにした。
 兄弟プレーヤーといえば、ワールドカップでも活躍したジャッキーとボビーのチャールトン兄弟(イングランド)やベルリン・オリンピックの加茂兄弟などが有名だが、この号に登場する大谷兄弟は選手としてのキャリアの後、兄・大谷一二(いちじ)は関西の名門企業、東洋紡績の社長、会長を務めてビジネスマンの成功者となり、弟・大谷四郎はスポーツ記者の道を歩んで、サッカーの新時代への道を切り開くのに力を尽くした。
 異なった道を歩みながら、ともに後輩たちの指標となった兄弟のサッカー人生を振り返る。

 90歳の大谷一二さんは、不定期ながら今も週1回くらいのペースで会社へ通う。芦屋市の自宅から大阪・北浜の東洋紡本社まで、車ではなくJRを利用することもある。三ツ揃い姿は背筋がピンと伸びて、昭和12年(1937年)以来、66年間のビジネスマンの年輪がにじみ出る。
 東洋紡名誉顧問、関西経済連合会顧問などの肩書を持つ、この人のもう一つの顔は神戸一中サッカー部OB、元・日本代表選手――それも、戦前の日本サッカー界で飛び切り上質のプレーヤーとして、同時代の仲間から尊敬を受け、試合相手の脅威となったFWだった。


小学生のときにチョウ・デインを見る

 大正元年(1912年)生まれの大谷一二がフットボール(サッカー)に出合ったのは、神戸市の東部にある御影師範付属小学校のときだった。
 学校の先生の育成機関であった師範学校が日本でのサッカー普及に大きなカのあったことは、この連載でも何度か述べたが、なかでも御影師範は、大正7年(1918年)に始まった日本フートボール大会(現・高校サッカー選手権)で優勝を続けていた。そしてまた、その付属小学校では、子供たちがボールを執ることに親しんでいた。次男坊で一二と呼ばれた少年は、後に中学生の仲間から「ワン・ツー」と英語読みのニックネームをつけられ、私たち後輩は「ワン・ツーさん」と呼んでいた。その「一二」君は4年生か5年生のころに、ビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディンが御影師範の選手にサッカーを指導するのを見た。
 このビルマ人の指導が、手探り状態であった日本サッカーの技術向上に大きなステップとなるのだが……。走り高跳びの選手でもあった長身で、スラリとしたビルマ人(インド・アーリアン系)が少年の目にどのように映ったか、後に最もスタイルの美しい日本人選手の一人となった「一二」君に影響を及ぽしたことは十分考えられる。


神戸一中で全国大会優勝

 御影師範付属小学校から神戸一中に進めば、蹴球部に入るのが極めて常識的だったが、大谷少年はサッカーばかりしていたわけではない。テニスにもかなり熱中したらしい。
 すでに神戸一中は大正14年(1925年)の第8回日本フートボール大会に優勝していて、御影師範のライバルになっていた。このときの5年生(卒業年度は26回生)に、後に昭和5年(1930年)の極東大会で活躍した若林竹雄がいた。
 次の年、大正15年(1926年)から日本フートボール大会は予選制度を設けて、全国中等学校蹴球選手権となり、その兵庫県予選で神戸一中はしばらく御影師範に勝てなかったが、昭和5年、大谷一二が5年生のときに御影を破って、甲子園南運動場で行われた本大会で優勝した。
 後に少年サッカーの発展に力を注いだ加藤正信ドクターや、ベルリン・オリンピック代表の右近徳太郎といったメンバーもいた。左ウイングの大谷と右ウイングの右近という、個人的にキープカ、突破カのある両翼を持つこのチームは、4月から10月までに6つの大会に出場して、3回決勝で敗れ、3回優勝しているが、11月の全国中等学校蹴球選手権・兵庫県予選で御影を破り、翌年1月の本大会で優勝したのだった。当時の選手の話に「兵庫県予選で勝ったことで気が抜けたようになり、全国大会はまったく調子が出ずに、準決勝までは辛勝という感じだった。決勝になって初めて目が覚めたようになって、広島師範に3−0で勝った」とある。
 その本大会の準決勝で対戦した市岡中学に川本泰三(ベルリン・オリンピック日本代表)がいた。
「神戸一中に0−1で負けたが、先輩たちは『一中に1点差だから、うちは日本で2番目だ』と喜んでいた」とは「シュートの名人」の話だが、「名人」によると、そのころ、大谷一二、右近徳太郎といった名は、関西の中学生の間では、すでに有名だったといっている。


ウイングプレー、サイド攻撃

 2歳年長で、体格も上の師範学校に勝つために、大正末期からショート・パス戦術を独自に開発してきた神戸一中の伝統は、高山忠雄、若林竹雄といった優れたウイング・プレーヤーを生むようになり、この昭和5年の大谷、右近の左右両翼の備わったチームをつくった。
 短いパスをつなぐことと、サイドを使って広く攻めることを心がければ、攻撃は効果があることを、この時期の神戸一中の少年たちは自然に身につけ、それが一つのクラブの戦術常識として伝わってゆくのだが、昭和5年の大谷一二のチームは、その意味でも一つのステップであった。


神戸商大で関西初制覇

 中学を卒業するとビジネスマンであった父の影響で、神戸高等商業(現・神戸商大)に進む。ここでサッカー部を創設する。高商を卒業し、鐘紡に勤めるようになる。隣家が鐘紡の総帥・武藤山治であったという縁だが、あまり面白くなかったので退社し、ちょうど昇格した神戸商大(現・神戸大)に入学する。単科大学で予科はなく、学生数もサッカー部員の数も少ないハンディのなかで、大谷一二と仲間たちは急速にカをつけ、昭和11年(1936年)秋の関西学生リーグで、その歴史で初めて神戸商大が優勝した。国立大学のサッカーは、関東の東大や関西の京大が強かった時期もあるが、それは旧制インターハイという地盤を持つことと、総合大学という利点(学生数が多いこと)もあってのことだが、神戸商大のような単科大学の優勝は極めて珍しい例であり、大谷一二というずば抜けたプレーヤーを中心にした少数の部員のまとまりによるものといわれた。自分の大学のチームだけでなく、東西対抗の西軍でも活躍した。
 生まれつき足は速かった。小学生のころから遊びで身につけたボールテクニックは自らの工夫によって、高いレベルになっていた。
 そのドリブルは、「右足のアウトサイドでキープしながら、相手の前にさらしておいて、スピードで抜き去る」(同時代の日本代表DF、吉江経雄の話)――天性のスピードと緩急を生かすものだった。
 100メートル11秒6だったのを、陸上競技部の練習に参加し、ハードルなども走っで11秒2にまでアップし、三商大対抗の陸上競技にも出場したというから、自分の特性を伸ばすことに熱心だった。


大谷一二・略歴

1912年(大正元年) 8月31日、父・恭助、母・たまの二男として生まれる。
1919年(大正8年) 4月、御影師範付属小学校に入学、サッカーに親しむ。
1925年(大正14年) 4月、神戸一中入学。
1930年(昭和5年) 1月、第12回全国中等学校蹴球選手権大会に優勝。
             1回戦・対熊本範(2−1)準々決勝・対愛知一師(3−2)準決勝・対市岡中(1−0)決勝・対広島師範(3−0)
             同4月、神戸高等商業(現・神戸商大)に入学。
1933年(昭和8年) 3月、神戸高等商業を卒業、鐘紡に入社。
1934年(昭和9年) 3月、鐘紡を退社、神戸商大(現・神戸大)入学。
             同5月、マニラでの第10回極東大会に日本代表として出場。
1936年(昭和11年) 関西学生サッカーリーグで、神戸商大が初優勝。
1937年(昭和12年) 3月、神戸商大を卒業。
             同4月、東洋紡績に入社。
1943年(昭和18年) 召集。陸軍に入り、タイ、ビルマ(現・ミャンマー)へ。
1946年(昭和21年) 5月、復員。
1955年(昭和30年) 9月、同社ブラジル駐在員に。
1959年(昭和34年) 5月、帰国。
1964年(昭和39年) 12月、同社取締役に就任。
1972年(昭和47年) 12月、同社専務取締役に就任。
1974年(昭和49年) 6月、同社社長に就任。
1978年(昭和53年) 7月、同社取締役会長に就任。
1983年(昭和58年) 7月、同社相談役に就任。
1992年(平成4年) 名誉顧問に就任。


★SOCCER COLUMN

戦前派兄弟選手では加茂フリューゲルスと松永3兄弟
 サッカー界で活躍する兄弟選手は少なくない。Jの現役バリバリでは、横浜F・マリノスの遠藤彰弘、ガンバ大阪の遠藤保仁がおり、ベテランではカズこと三浦知良と兄・泰年(ともにヴィッセル神戸)が有名だ。
 古いところでは、兄弟で1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに出場して、対スウェーデン戦逆転勝利に働いた、加茂健、正五は、彼らが左サイドの攻撃を担ったところから、当時のドイツの新聞は「カモ、カモ、フリューゲルス(翼)」とたたえた。
 浜松出身の加茂兄弟とともに、静岡で忘れることのできないのは、志太中(現・藤枝東高)の松永3兄弟。長男の行(あきら)は対スウェーデン戦の3点目(決勝ゴール)を決めた殊勲者、次男・信男は昭和20年代の日本代表CDF、三男・磧(せき)も早大と日本代表のFWだった。

兄弟選手とワールドカップ 世界チャンピオンにチャールトン兄弟
 ワールドカップに出場した兄弟選手を眺めると――まず、1954年スイス大会優勝の西ドイツのフリッツ・ワルターとオトマール・ワルター。兄のフリッツは代表のキャプテンで、優れたプレーメーカーだった。
1966年大会優勝のイングランド代表には、ジャッキーとボビーのチャールトン兄弟がいた。兄のジャッキーは長身のディフェンダー、後にアイルランドの監督も務め、ボビーはマンチェスター・ユナイテッドの人気選手、サーの称号を持つ。
 1978年アルゼンチン大会準優勝のオランダには、ルネとピリーという双子のファン・デ・ケルクホフ兄弟がいた。決勝戦をテレビで見た人は、ルネが腕に巻いたバンテージにアルゼンチン側が抗議して、試合開始が遅れたシーンを記憶されているだろう。1982年スペイン大会準優勝の西ドイツのDFには、フェルスター兄弟がいた。


(月刊グラン2003年5月号 No.110)

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