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兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
ベルリン世代にあって
大谷一二が神戸一中で第12回全国中等学校蹴球選手権大会(現・全国高校選手権大会)に優勝した昭和5年(1930年)は、日本サッカーにとって記念すべき年。正月の中等学校選手権から4ヶ月後に、東京・明治神宮競技場で開催された第9回極東大会(5月24〜31日)で日本代表はそれまでの目標であった中華民国と初めて引き分け、フィリピンにも勝って、東アジアのトップに並んだのだった。
アジアのトップに立てば、次はオリンピック――2年後の昭和7年(1932年)ロサンゼルス大会はサッカーが開催されず、6年後のベルリン・オリンピックが焦点になるのだが、この昭和5年の中等学校選手権に活躍した世代がベルリンのメンバーの中心となる。
神戸一中を卒業後、まず県立の神戸高等商業(現・神戸商大)に進み、卒業後、1年間会社勤めをしたワンツー(一二)青年は、神戸商大(現・神戸大)に進む。国立の単科大学だからスポーツの部活動はあっても、多人数のチーム競技ではメンバー豊富とはゆかないが、「ボクは運が強くて」と本人が語るとおり、神戸一中で2学年下の前川有三や、俊足のCF島義美、あるいはDFの木下勇、吉江経雄といった日本代表候補に入る質の高いプレーヤーが集まってきた。それが昭和11年(1936年)秋の関西学生リーグ初優勝につながった。
同じ年の夏、ベルリン・オリンピックで日本はスウェーデンに勝って、ヨーロッパに大きな衝撃を与える。次の準々決勝でイタリアに8−0で大敗はしたが、優勝候補のスウェーデンに対する0−2からの逆転勝ちは後世まで語られることになる。
そのオリンピックの代表に関西の大学チームからは一人も入らなかった。
その2年前の第10回極東大会(1934年、マニラ)には、関東、関西の連合ともいうべき日本代表が編成されたが、東と西の対抗意識の強かったことに加えて、運営の立場にあった竹腰重丸が体協の政治問題(極東大会への満州国参加)にかかわることになって、チームをまとめることができず、優秀な顔ぶれをそろえながら不成績に終わったのも伏線の一つ。対外試合には組織力重視の声も強く、そのため大学ナンバーワンの早大を主力とする編成となった。
そうであっても、関東の川本泰三と並ぶ、関西随一のFW大谷一二がメンバーからもれるのはおかしい――関西では選手選考委員会に対する不満が高まり、大きなシコリがしばらく残ることになった。
シュートの名人
当の本人はその問題に対して語らないが、中学以来のライバルであった川本泰三(ベルリン・オリンピック代表、後の日本サッカー協会技術委員長)は「僕らは学生で選考会のいきさつは知らされていないが、ベルリンのあのチームに大谷一二が加わっていれば、まったく違った攻撃ができただろうと思う。彼の個人技、特にサイドでのキープカ、ドリブルは攻撃にも生きるし、攻められたときにも、ディフェンスが一息つける間を稼げたはず」とかつて私に語られたことがある。
スピードとテクニックを備えた大谷一二のプレーを最も高く評価していたのは、おそらくこのシュートの名人といわれた川本泰三だったはず。「彼のように素晴らしい素質を持つ選手にどうすれば対抗できるかを考え、工夫したおかげで自分のプレーを築いた」とは、川本が折に触れて語った言葉。「シュートの型をつくる」「タイミングをずらせる」「相手DFの間合いに入って、ボールを浮かせて逃げる」「シュートの前に、マークから消えて現れる」――釜本邦茂まで大きな影響を及ぽしたベルリンのCF、川本の秘術は、大谷一二に対抗するために生まれた「素質のない者の、つまり貧乏人の知恵」ということになる。
その意味でベルリンヘは行かなかったが、大谷一二は逆転劇にも無縁ではなかった。
大戦後、私は神戸大学チームでこの人と共にプレーをした。そのドリブルの姿勢の美しいこと。後に昭和41年(1966年)のワールドカップ・イングランド大会で、ハンガリーのフロリアン・アルパートのブラジルの守りを切り裂いたドリブルを見たとき「ワンツーさんだ」と声に出したものだ。
昭和12年(1937年)に大学を卒業すると東洋紡績に入り、やがて昭和18年(1943年)、軍隊へ。南方軍にいて終戦、食料の乏しい捕虜キャンプで、栄養をつけるためヘビも食べた経験もあった。
ビジネスの社会でも、独特の強気で、ブラジルでの難しい仕事を成功させ、役員になり、副社長となり、昭和49年(1974年)6月、関西の名門・東洋紡の社長となった。
あまりスマートすぎて近寄り難く見えるが、実際は親切で後輩の面倒見が良かった。なにより仕事は強気で、部下にとっては、自ら責任を取ってくれる頼りがいのある上司だったらしい。昭和58年(1983年)に会長を退き、以来相談役。名誉顧問となっても、なお、時に会社に顔を出し、関西経済連合会の会議にも出席する。サッカーでも、ビジネスでも超の字がつく一流となり、90歳を超えてなお元気なこの人を、後輩たちはいつまで指標として見つめている。
生涯一記者、大谷四郎のり−ダーシップ
大谷四郎は、文字どおり、大各家の四男、次兄・一二よりも6歳若く、大正7年(1918年)4月23日生まれだった。残念なことに平成2年(1990年)11月9日、72歳で亡くなったが、次兄と同じように、御影師範付属小学校から神戸一中に進み、中学4、5年生のときに全国大会に優勝し、一高、東大でもプレーを続け、昭和17年(1942年)には関東大学リーグで優勝、東西大学一位対抗にも勝って学生ナンバーワンとなった。
大戦中は海軍の主計将校として軍務に就き、昭和21年(1946年)にラバウルから帰還したあと、同23年(1948年)、朝日新聞に入社し、以来スポーツ記者の道を歩みながらサッカー興隆の道を探った。
学生時代からキャプテンシーとリーダーシップで知られた四郎は、関西サッカー協会のコーチとして学生を指導し、昭和28年(1953年)には第3回国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)の竹腰重丸団長、松丸貞一監督を助け、長沼健、岡野俊一郎たち、後に日本サッカーを背負う人材の成長に手を貸した。
関西サッカー協会の運営にかかわり、紳戸フットボールクラブの設立から経営、そして市民スポーツクラブの理念の普及や登録制度をはじめとする日本サッカー協会の改革などにも力を尽くした。
大学を卒業したあとビジネスマンに徹底した一二兄と違って、社会に出てからもサッカーから離れず、また生涯一記者として、スポーツの取材と評論に打ち込んだ、この人と理念については次号で紹介したい。
★SOCCER COLUMN
ベルリン五輪の選手選考の不満
ベルリン五輪代表選手16人は別表のとおり。
10人が早大、東大3、慶応、東京高等師範、ソウルの普成専門から各1の編成となっている。当時、日本の統治下にあった朝鮮地方はサッカーが盛んで、日本選手権(現・天皇杯)や中等学校選手権(現・高校選手権)などの優勝チームも出していた。
そうした背景からベルリンのメンバーには、本来なら朝鮮地方からもっと多くの選手が入っているはずなのに、金容植ひとりだけだったのは、政治がらみや人種的偏見だという意見は、根強く残っているが、代表編成についての不満は関西でも大戦後にも何度も語られたほど。また、そのころ実力のあった慶応から右近徳太郎ひとりであったことも、関係者には承服し難いことだった。
後の東京オリンピックのときのように、長期の合同練習もできなかった(社会的にも経済的にも)時代に、組織プレーを第一に考えた結果というのだが……。
ブラジル人を感嘆させた社長のサッカー
昭和29年(1954年)、東洋紡の庶務課長だった大谷一二は綿花の生産国のブラジルで働くことになった。ブラジルの会社を買収し、サンパウロで5年間、社長を務めた。
海外進出がまだ珍しいときだったから、まず米国へ行って、南米専門の投資顧問会社に相談することから始め、社長となって経営のすべて、資金の手当てから労働組合との交渉までするのは大変だったが、従業員のサッカーに加わってプレーすると「うちの社長は日本人なのにサッカーがとてもうまい」と評判になり、それから組合との交渉も、ずいぶん楽になった。
在任中の昭和3年(1958年)にブラジルがワールドカップに初優勝し、国中が沸き立ったのも楽しい思い出の一つ。
ベルリン・オリンピック日本代表
GK
*佐野 理平(早稲田大)
不破 整(早稲田高等学院)
DF
*堀江 忠男(早稲田大)
*種田 孝一(東京大)
*竹内 悌三(東京大出)
鈴木 保男(早稲田大)
HB
*立原 元夫(早稲田大出)
*金 容植(普成専門学校)
笹野 積次(早稲田大)
FW
*松永 行(東京高等師範)
*右近徳太郎(慶応大)
*川本 泰三(早稲田大)
*加茂 健(早稲田大)
*加茂 正五(早稲田大)
西邑 昌一(早稲田大)
高橋 豊二(東京大)
※*はスウェーデン戦出場選手
(月刊グラン2003年6月号 No.111)