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兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)

黄金コースで育って

 大谷四郎は5歳年長の兄・一二(いちじ)と同じように、御影師範付属小学校から神戸一中という当時では最も恵まれたサッカー環境で育った。
 中学3年生からレギュラーとなり、4、5年生のときに全国大会に優勝する。
 1学年上には、二宮洋一、笠原隆、津田幸男(いずれも慶応大へ)、大山政行、直木和(東大へ)、田島昭策(関学大へ)、前川光男(神戸大へ)とのちに日本代表、あるいは候補となったレベルの高い選手がそろっていて、大谷四郎は左ウイングを務め、5年生(最上級生)のときは主将でCF(センターフォワード)だった。
 前年があまりにメンバーがそろっていたため、その主軸が抜けて、力が大幅に落ちると見られていたが、5月の全国招待大会に優勝して自信をつけ、夏の全国中等学校選手権(現・高校選手権)にも優勝した。
 夏というのは、それまで、今と同じ正月に開催されていた大会を「オリンピックが夏にある」ということから、主催の毎日新聞社が会期を夏に移したもの。
 その夏の南甲子園運動場では、神戸一中は1回戦で滋賀師範を8−0、次いで広島一中を6−2で退け、準決勝で刈谷中学を5−1、決勝で天王寺師範を2−1で下した。
 長身でスマートで、インステップキックのフォームの美しいこの人は、ストライカーとしてゴールを重ね、決勝でも左足のロングシュートで決勝ゴールとなるチームの2点目を決めている。


一高、東大、朝日のコースを悠々と

 神戸一中を卒業して第一高等学校へ進み、旧制インターハイで活躍、ここでは優勝はなかったが、「天下の秀才」の集まるこの学校でも、自分流を貫いていたようだ。全員が寮生活をすることになっていたが、どういうわけか2年目から寮を出て、姉の家に移ったという。
 中学時代から「ガリ勉」タイプでないのに学業成績は優秀。練習も人一倍というふうではないのに、試合のカンどころをつかんで、重要なゴールを決め、東大時代にも2度、関東大学リーグに優勝した。
 ちょうど昭和12年(1937年)に早稲田大の川本泰三たちが卒業したあと、同13年(1938年)から慶応大の黄金期が続き、その中心となった二宮洋一たちが同16年(1941年)に卒業したあと、東大と早大が関東のタイトルを争い、同年は両校が優勝、翌年春(大学の修業年限繰り上げのため、リーグ戦も秋から春に移行)には東大が1位となった。昭和17年(1942年)は、大谷は本来の卒業を延ばし、サッカーから離れるつもりであったらしいが、リーグ戦初戦でつまずいたため、急きょチームに復帰しての優勝。山とスキーが好きで、乗鞍岳の山荘にいたのを呼び返されたというエピソードがある。
 大学を出ると難関といわれた海軍の経理学校に入り、卒業して中尉となってラバウルで敗戦を迎えた。かつて歌にもなった「ラバウル航空隊」も大戦末期は戦う航空戦力もなく、苦しい生活だったが、主計将校として基地の幹部から厚い信頼を受けていた。
 ラバウルから帰国したのが昭和21年(1946年)5月。大戦終了から9ヶ月たっていた。船会社に勤めていたが、記者になろうと朝日新聞社に入る。入社のときから注目され、大先輩や仲間から「将来の編集局長候補が入ってきた」と噂された。


実業団大会と国際学生スポーツ週間

「日本は平和な国となった。将来、この国でスポーツは盛んになり、人々はスポーツに大きな金を使うようになる。そうした社会の流れを見ながら、それがうまくゆくように考えたい」と、働き場は運動部と決めていた。
 もちろんサッカーを忘れることはなかった。復員後すぐ関西サッカー協会のコーチ格になり、東西対抗の西軍のレベルアップに努め、自らも大阪クラブや東大LB(東大のOBチーム)などでプレーを続けていた。
 朝日新聞には東京に山田午郎(故人)というサッカー記者の草分けともいうべき大先輩がいた。その山田記者の発案で、実業団の全国大会が創設され、大谷記者は実業団時代を築く、この大会の発展に働いた。
 東京オリンピックの翌年(1965年)に、初の全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)がスタートした。これが現在のJリーグの基盤チームをつくったが、全国実業団大会がなければ、JSLもまた容易にスタートできなかったはず。いわば実業団大会はJリーグに至る一粒の麦といえた。
 昭和26年(1951年)のヘルシングボーリン(スウェーデン)の来日や、戦前の朝日招待の復活と大谷記者を得て、朝日新聞はサッカーの国際、国内の試合をバックアップし、大戦後のサッカー復興にカを貸した。大谷記者自身も昭和28年(1953年)の国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に日本代表チームのコーチとして派遣され、竹腰重丸、松丸貞一らの先輩を助けた。この学生チームのなかから、将釆の日本代表そして日本サッカーを担う人材が育った。大会後にユーゴやスウェーデン、イングランドまで足を伸ばしてプレーの経験を積み、パリでルーブル美術館を見学するなど、単にサッカーだけでなく、大きく視野を広げるために組まれたこのツアーは、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三たち若いカにとって大きな経験となった。
 大谷は昭和32年(1957年)に脳下垂体に腫れ物(腫瘍)ができ、手術を受けた。視力が落ちるところから、始めは単なる眼病と見ていたのが、難しい病と分かったのだが、手術によって回復し、東京オリンピックからメキシコ・オリンピックに向かう日本興隆期につき合う。戦後すぐに、協会の組織を考え、ルールにも精通していたこのころの大谷記者は、協会の長老たちからも信頼され、なにかあると「大谷に聞け」ということになっていた。


メキシコW杯の取材と神戸FC

 昭和45年(1970年)、メキシコでのワールドカップの取材に出かけ、円熟ペレとブラジルの優勝を自らの目で確かめる。
 この年の暮れに、私たちの仲間は兵庫サッカー友の会という組織を社団法人にして「神戸フットボールクラブ(FC)」をつくったが、加藤正信ドクターとともに最も指導力を発揮したのが大谷記者。規約の論議の展開や筋道の立て方のうまさに、あらためて感服したものだ。日本で初めての「法人格の市民スポーツクラブ」は、その登録会員を高校生とか大学生、あるいは社会人といった社会的な身分で分けるのでなく、「年齢別」に区分けしたところに、このクラブの先見性があるが、この理念は大谷記者によるもの。
 のちに日本サッカー協会の登録制度が年齢別になるが、神戸FCはそれより一歩先んじての実行だった。
 昭和48年(1973年)、55歳で大谷記者は朝日を退く。自らの体調もあっただろうが、フリーランスのスポーツライターとして、じっくり書きたいものを――という気持ちが強かったのだろう。
 そのころ、サッカーマガジンに連載した『大谷四郎の日記・悠々と急げ』には、日本サッカーの停滞の現状に鋭い目を向けながらも、焦らず、温かい目で見つめる人柄が表れていた。
 ベルリン・オリンピック世代の長老たちから、長沼、岡野たち東京、メキシコ世代へ日本協会の若返りについて、陰の力となった大谷記者は、協会の改革についても常に積極的だった。神戸FCでは、自ら技術委員長となり、黒田和生(現・滝川二高監督)、加藤寛(日本クラブユース連盟理事)、岡俊彦(神戸FCコーチ)などの指導者を育てた。クラブ運営も加藤正信ドクターのような超人的な推進者でなくても、会員が力を出し合い、運営してゆける仕組みと気構えを残した。
 冷静に見つめ、理論的に考え、その推論のなかから常に見事な結論を導き出し、一人の偉大な人のカを認めつつも、皆が力を合わせて物事を解決し、運営しでゆく――最も民主であった大谷四郎記者は、私にも私の同世代や後輩にも大きな影響を与えながら、平成2年(1990年)11月9日に去った。
 社会もサッカーも急速に変化するなかにあって、その変化を見通す人がいてくれれば――と、非才の後輩はあらためて思う。


大谷四郎・略歴

1918年(大正7年) 4月23日、神戸市御影に生まれる。
1925年(大正14年) 4月、御影師範付属小学校に入学、小学生のころからサッカーに親しむ。
1931年(昭和6年) 9月、神戸一中に入学。サッカー部に入り、3年生からレギュラー。
             昭和9年の全国招待大会、同10年の全国中等学校選手権(現・高校選手権)に優勝。
1936年(昭和11年) 神戸一中卒業。第一高等学校(文科乙類)に入学。
1939年(昭和14年) 東京帝大(現・東京大学)経済学部に入学。関東大学リーグで昭和16、17年に優勝。
1942年(昭和17年) 9月、東大卒業、同30日、海軍経理学校に入校。
1943年(昭和18年) 1月、同校を卒業、海軍主計中尉に任官、戦艦山城に勤務。
             7月、第2輸送隊主計長となり、ラバウルヘ。
1946年(昭和21年) 5月、ラバウルより復員、帰国。大阪商船に勤務。
1948年(昭和23年) 4月、朝日新聞社に入社、スポーツ記者となる。
1953年(昭和28年) 国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に日本代表チームのコーチとして参加。
1954(昭刊29年) 大阪サッカークラブの広報誌のかたちで、サッカーの同人誌というべき、『KICK OFF』創刊。
1970年(昭和45年) ワールドカップ・メキシコ大会を取材。
             同年、社団法人神戸フットボールクラブを加藤正信ドクターとともに設立。会員登録と日本で初めての年齢別にした。
1973年(昭和48年) 3月、朝日新聞社を退職、スポーツ記者として執筆活動を続けながら、神戸FCの運営、発展にカを注ぐ。
1990(平成2年) 11月9日、死去。


★SOCCER COLUMN

“ありがとう風の神様” 対刈谷中戦
「鳴尾競馬場の松並木の方からにわかに空が、暗くなったと思ったら、芝生のフィールドを小さなつむじ風がサッと走り、いままで相当強く吹いていた北風が、がらり正反対の南に変わっていた。一枚の白い紙片がどす黒い空へ舞い上がっていったのをいまなお覚えている」という書き出しで大谷四郎は、『高校サッカー40年史』に昭和10年(1935年)夏の全国選手権優勝の思い出を寄稿している。
 準決勝の対刈谷中戦で、前後半とも風上で戦った幸運と、少年期に経験した夏の「体力を消耗するばかりで愉快なサッカーでなかった」ことや、チームメートの素晴らしいプレーについて書き込んでいる。
 自分のロングシュートで優勝戦の決勝ゴールを決めたことは、全然触れていないが――。
 この40年史に掲載された小編は、大谷記者の多くの名記事のなかの珠玉の一つでもある。機会があったら、ぜひ一読をおすすめしたい。

PKを決める気のなかったCF
 昭和24年(1949年)の東西OB選抜対抗が西宮球技壕で行なわれたとき、大谷四郎は西軍のCFで出場した。相手DFのハンドがあって主審は西軍にPKを与えた。当然、ストライカー大谷選手が蹴ったのだが、ボールは弱く、ゴールキーパーの正面に飛んで、得点にはならなかった。
 実はこのPK、故意でなく偶然のハンドで、相手のDFにとってはまったくの不運。大谷選手にとっても「よし、ゴールしてやろう」という気にもなれなかったのだった。「意識して外したというより、本気でシュートする気になれず、心の定まらぬままに蹴ったら、ああいうことになった」とは本人の言葉。同じ西軍のMFでプレーしていた私にも、なんとなく気配は伝わったが、当時日刊スポーツにいた有馬集記者がこの大谷選手の心情を見抜いて「PKを外した」と記事にした。
 1得点しそこなった大谷選手は、ヘディングシュートを決めて同点として、この試合は引き分けとなった。


(月刊グラン2003年7月号 No.112)

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