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【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化

 この連載は、この号で第40回になります。まだ少し続けさせていただくのですが、今回は番外編として、これまで掲載した内容を振り返るとともに、2002年ワールドカップから1年の日本サッカーの変化について触れてみたいと思います。


『この国の…』と『このくに と…』

 この連載を始めたのが2000年4月号、月刊グラン第73号でした。以来3年余、日本サッカーが現在の“かたち”をつくるのに、大きな役割を果たし、後にまで影響を及ぽした人たちを紹介して参りました。これまでにピックアップしたのは17人。プレーヤーとしては、日本代表として国際舞台で活躍した竹腰重丸、川本泰三、右近徳太郎、二宮洋一、釜本邦茂、杉山隆一、小城得達たち。技術指導やサッカーの普及という面から田辺五兵衛、D・クラーマー、河本春男、加藤正信、工藤孝一、岩谷俊夫、鈴木良韶、そして大谷一二、四郎兄弟といった顔ぶれでした。1回の記事量に見開き(2ページ)をあて、なお、ときには上、中、下と3回、さらには“続”というふうに、貴重な誌面のなかで随分、スペースの面で優遇していただいたと感謝しています。
 もともとこの企画は、月刊グランの編集長・木本恵也さんから、司馬遼太郎さん『この国のかたち』のようなものをサッカーで書いては――との提案から始まったものです。
 そのころ、別の雑誌に『マイ・フットボール・クロニクル」という日本サッカーの流れと私の人生とを絡めた、いわば私家版サッカー史を連載していたので、月刊グランではその時代の「人」に焦点をあててみようとしたのでした。司馬さんは私よりも1歳年長で、産経新聞の記者としても先輩。大作家がわが社の文化部のデスク(次長)をしておられたとき、その席は私たちの運動部(スポーツ)のごく近くでした。
 その司馬さんの『この国…』のような――という木本編集長の要望は、浅学非才のわが身には、いささか難しくはありますが、ともかく多くの若い人たちに、はるか昔に思えるサッカー界の先達たちのストーリーを語ることができたのは、何よりの幸いでした。
 もちろん、まだ語るべき人はたくさん残っています。明治43年(1910年)に東京高等師範を卒業して、名古屋でのサッカー普及に尽くした新帯国太郎さんや、早稲田のライバル、慶応大に昭和初期にドイツ・サッカーを持ち込んだ浜田諭吉主将――。お目にかかったことがないだけに、こういう機会に調べておきたい先人でした。
 といって、いつまでも古い時代にこだわっているわけにもゆきません。ぼつぼつこの10年間に劇的な変化を遂げた日本サッカーで大きな役割を担った人たちの話に移りたいと考えています。ワールドカップの日韓“共催”の決定にかかわった長沼健、大会開催のときにJFA(日本サッカー協会)会長という重責にあった岡野俊一郎――。昭和39年(1964年)の東京オリンピックから40年にわたって、日本サッカーの推進力となったこの2人について、次号から始める予定です」


JFAの大改革 登録を200万人に

 ワールドカップ開催といえば、あの興奮からすでに1年が過ぎました。
 対ベルギー戦の鈴木の同点ゴールで息を吹き返し、稲本の勝ち越しで沸き、その稲本の対ロシア戦ゴールで、ワールドカップの初勝利を挙げたうれしさ――さらにはチュニジア戦の完勝、そして、その後のトルコ戦の味気なさ、と4試合の情景は今も鮮明に頭に焼き付いています。
 日本代表の16強入りも、大会の運営も大成功でした。しかし、私はこの大事業の後、立ち止まることなく、将来に向かって大改革に踏み出したJFA(川淵三郎キャプテン)の姿勢に拍手を送りたいと思います。
 昭和39年の東京オリンピックが終わったとき、日本のスポーツ界は長年の夢であった大会開催の成功を喜び合いましたが、日本サッカーはすぐにその翌年から、プロ野球以外のスポーツでは初めての全国リーグ「日本サッカーリーグ」(JSL)を発足させました。
 これはオリンピックで1勝し、8強に進んだのを足場に、さらに選手強化を進めるとともに、全国リーグによってサッカーを地方に浸透させ、盛んにするのが狙いでした。
 30年後にJリーグがスタートし、その10年後にワールドカップ開催でした。ワールドカップで16強に入ったのは、コーチ、選手の努力、サポーターのバックアップが大きいのですが、開催国という地の利といくつかの幸運があったことも確かです。
 世界のレベルに追い付き、日本代表チームが常に10指に入るようなサッカー国になるためには、まず日本サッカーの“政府”ともいうべきJFAが、世界トップのFA(協会)に肩を並べるようになろう――JFAがキャプテンズ・ミッションと名付けた重要政策(コラム参照)を発表し、その実現を急ぐ背景には、世界のサッカー大国に追い付きたいとの願いがあるからです。
 協会の登録人口を200万人にしようというのは、現在の80万人から見ると大幅アップのようですが、サッカー愛好者の増大から見れば、大きすぎる目標ではありません。日本よりも人口の少ないドイツ(8千200万人)の登録プレーヤーが500万人は別格としても、日本の半分以下のフランス(5千600万人)でも200万人以上なのです。


一人一人に目を向ける

 もちろん、量の拡大だけでなく、質を高めることが大切です。トップのJリーグは選手の技術、体力のアップで試合内容も充実し、観客数もこの1年で増加しました。
 日本代表の監督にジーコが就任して以来、選手一人一人の自主を重んじる彼の指導は、これまで“教えられる”ことに慣れていたプレーヤーやメディアを困惑させたこともありました。が、次第に選手たちに浸透し、自らの工夫と努力によって技術を高め、選手同士が話し合い、意見を述べ合うことで、チームワークを高める傾向が出てきました。
 コンフェデレーションズカップ・ニュージーランド戦で中田英寿が素晴らしいドリブル・シュートを決めたとき、彼がフランスに到着してからも毎日、シュートの練習を続けていたことをテレビのコメンテーターが紹介し、翌日のスポーツ紙にも彼の練習の写真が掲載されました。
 これはフォーメーションや戦術論よりも、誰が“どういうプレーをした”という、選手一人一人のプレーにメディアが目を向けるようになったからといえます。
 ジーコの強調する“自主”は、これまであまりにもチームあるいは全体に向いていた意識を、“一人一人”“個”のほうに向けようというジーコの提言だとの声もありますが、選手の“自主”は、なにもジーコ流、あるいは南米流でなく、むしろ世界共通の考えなのです。


ストライカーの系譜に見る自主性

 これまでのこの連載に登場したサッカー人のなかで川本泰三、二宮洋一、釜本邦茂の3人は、日本のストライカーの系譜といえるでしょう。
 まだコーチという制度も定かでなかった時期に、川本は朝から弁当を持ってグラウンドヘ出かけ、自らのイメージを描きながらドリブル・シュートを繰り返し、同世代の仲間から“名人”“得点機械”といわれるまでシュートの精度を高めました。二宮は寮の自室のかもいにボールをつり、ジャンプしてボールを額でとらえる感覚を養っていました。
 メキシコ・オリンピックの得点王、釜本はヘディングのときの、ボールの落下点の見極めが誰よりも早く正確でしたが、大学1年のころから、ロングボールをヘディングすることで、その“眼力”をつけました。もちろん、天性のキックのインパクトの強さと反復練習によって向上した右足のスイングの早さは、対戦した外国の一流プロDFが舌を巻いたものです。この3人の共通しているのは、右も左もしっかりとしたコントロールでシュートができたこ
とです。理由は両足を使えるほうが、たくさんゴールできるからでした。
 ストライカーでなくても、連載に登場した人たちを読み直してみれば、それぞれが自ら工夫し、切り開いた人たちであったと、あらためて思います。
 ワールドカップから1年を経て、「このくにとサッカー」が、少しずつ変化が始まったように見えるのを、先人たちはどう見ているのでしょうか――。


★SOCCER COLUMN

大先達からメキシコ得点王 これまでの17人
*はじめにあたって(2000年4月号)
*昭和の大先達・竹腰垂丸 上、中、下(2000年5、6、7号)
*時代を見通した博覧強記・田辺五兵衛 上、中、下(2000年8、9、10月号)
*ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール・川本泰三 上、中、下(2000年11、12月号、2001年1月号)
*どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎(2001年2月号)
*日本サッカーの大改革にかかわった・デットマール・クラマー 上、中、下、続(2001年3、4、5、6月号)
*規制に挑戦し、普及と興隆の機関車となった偉大なドクター・加藤正信 上、中、下、続(2001年7、8、9、10月号)
*チーム指導と会社経営、生涯に2度成功したサッカー人・河本春男 上、下(2001年11、12月号)
*20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー・釜本邦茂 上、中、下、続(2002年1、2、3、4月号)
*世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー・杉山隆一 上、下(2002年5、6月号)
*早稲田の“主”工藤孝一 上、下(2002年7、8月号)
*天皇杯を7度も獲得した名ストライカー・二宮洋一 上、下(2002年9、10月号)
*ゴールを奪うMFで優しい指導者、歴史を掘り起こした記者・岩谷俊夫(2002年11月号)
*″自主“こそサッカー・日本代表・ジーコ監督(2002年12月号)
*攻守兼備のMF、努力の人・小城得達 上、下(2003年1、2月号)
*日本代表を応援し続けて40年、サポーターの元祖・鈴木良韶 上、下(2003年3、4月号)
*兄は社長に、弟は生涯一記者に、日本サッカーの指標となった・大谷一二、四郎兄弟 上、中、下(2003年5、6、7月号)

キャプテンズ・ミッションと平田本部長
「キャプテンズ・ミッション」と名付けられた日本サッカー協会の重点政策は(1)各種登録制度の検証・改革(2)施設の確保・活用(3)早期エリート教育の体制整備(4)中学年代の活性化(5)強化指定選手制度の見直し(6)ママさんサッカーの活性化(7)ファミリーフットサル大会の創設(8)リーグ戦の導入(9)新たなミッション(追加すべき施設)の9項目からなっていて、この実現のために昨年10月に特別チーム「キャプテン・ヘッドクォーターズ」(CHQ=平田竹男本部長)が発足し、2年間でやり遂げることを目指して活動している。
 平田本部長は昭和35年(1960年)生まれ。経済産業省資源エネルギー庁の石油・天然ガス課長から日本サッカー協会の専務理事に転職した、いわば異例の人。小学校4年から大学までずっとサッカーを続け、昭和57年(1982年)に旧通産省入り。省内にサッカー部をつくり、アメリカ留学中もハーバード大学のサッカー部にいたという。石油政策を担当していたが、Jリーグの創設前からプロ化検討委員会などにもかかわり、川淵キャプテンの要請で、協会の仕事へ転向した。有能で海外にも多くの人脈を持つこの人の推進力ヘの期待は大きい。


(月刊グラン2003年8月号 No.113)

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