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オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(上)

スポーツ少年団とホームステイ

「フランクフルトヘ行ってきました。留守中に、電話をいただいたそうで……」。落ち着いた、しかも張りのあるケン(健)さんの声だった。
 この原稿のためにインタビューの時間をとってほしいと連絡したら、その日はスポーツ少年団の日独交流でドイツのフランクフルトに1週間ばかり出かけていて留守だった。では、あらためて打ち合わせの電話をしますということにしたのだが、こちらのコールよりも先に、帰国早々のご本人からかかってきた。
 スポーツ少年団というのは、第2次大戦の荒廃から立ち上がったドイツが、青少年のスポーツ活動を盛んにするためにつくった仕組みの一つで、1964年の東京オリンピックのときに、日本も取り入れることになり、以来、ドイツ(当時は西ドイツ)との交流が始まった。子供たちを相手国に送り、ホームステイとスポーツを通じて互いの文化に触れる事業を続けてきた。その事業の延長の契約書のサインといったことも、今回の健さんのフランクフルト行きの仕事の一つだった。
 このスポーツ少年団の活動については、日本サッカー協会の第4代会長・野津謙(のづ・ゆずる)博士が熱心で、長くスポーツ少年団本部長を続けていた。野津さんは1955年から76年まで20余年間、会長を務め、東京オリンピックのときに、あのデットマル・クラーマー・コーチを招いた。
「ホームステイはいいですね。私たちも1953年のドルトムントで本当にいい経験をさせてもらったから……」
 日本のトップチームの強化でも、ワールドカップの招致でも、こうした少年の国際交流にも――どんな仕事や役柄に意義を見つけ、誠実にポジティブに向き合う健さんの人柄が伝わってくる電話だった。


銅メダル監督、専務理事、会長

 長沼健は1930年9月5日生まれだから、今年の誕生日で満73歳になる。
 1962年12月に日本代表チーム監督(当時は契約でなく、協会の組織のなかの監督だった)という仕事で日本協会に入ってから40余年、人生のすべてをサッカーと日本協会の発展のために尽くした。

▽東京(1964年)、メキシコ(1968年)両オリンピックの監督(ベスト8と鋼メダル)を務め、60年代から70年代にかけて日本の技術力アップと日本サッカーリーグの誕生、発展に尽くした。コーチ育成の組織づくりはアジアで最も早く、日本のスポーツ界でも先駆者だった。

▽1976年から協会専務理事となり、財政立て直しや制度改革を実行した。登録制度改革の先進性は、近頃、ようやくメディアにも理解されるようになった。

∇1987年から副会長となり、プロ化推進にかかわる。

∇1994年、第7代会長となって、2002年ワールドカップ招致への努力をし、96年の日韓共催での開催決定にごぎつけた。
1998年、日本代表が初めてワールドカップの予選を突破したフランス大会の終了とともに、会長職を岡野俊一郎にバトンタッチしたのだが、その後もスポーツとサッカーのさまぎまな役柄にかかわっている。

 その40年間を横から眺めてきた私にとって驚くのは、決して明るい話ばかりでなかった日本のサッカーとそれを統括する日本協会のなかにあって、監督のときも、専務理事として協会運営の実質的な中心となっていたときも、プロ化をスタートしワールドカップ開催を目指して韓国との招致合戦にしのぎを削る日本協会会長のときにも、何事も前向きに考え、解決し、実行してきたことだ。


ジャパン・コリアかコリア・ジャパンか

 2002年ワールドカップの共催は、大成功を収めたいまとなっては、1996年の共催決定のときにあったさまぎまな反対意見は、何であったのか――ということになるが、実際に共同開催に向かってゆくステップの一つ一つが大変だった。その一つに、大会の名称問題があった。
 1996年7月6日にチューリヒで開かれたFIFA(国際サッカー連盟)の検討委員会で、2002年大会の骨組みを決めるときに、FIFAが提案した大会名称は「2002年FIFAワールドカップ JAPAN KOREA」だった。これはアルファベットでJがKより先という単純だが、ヨーロッパの常識からきていた。しかし、韓国協会の鄭夢準(チョンモンジュン)会長は、決勝が日本で開催されるうえに、名称までが日本の後に韓国がくるのでは困ると異議を唱えた。こうした東アジア的な考えを理解できないFIFAは、アルファベット順でなぜいけないのかと取り合わず、鄭会長も譲らないため、会議はしばらくストップしてしまった。
 そこで、日本協会の長沼健会長が「『KOREA JAPAN』でもいい」と同意し、鄭会長の顔を立てたかたちにした。日本でも“日韓”か“韓日”かにこだわる人もあったが、この名称を譲ったことで会議は一気に進み、その後の準備にはずみがついた。
 会議の停滞を救い、「落としどころ」をとらえた長沼会長の判断はFIFA側には感謝された。「キックオフ・イン・コリア、ファイナル・イン・ジャパン」というかたちになるので、今後、もし共催でこういう名称問題が起こったときの解決策(開幕試合を行なう国の名を先にする)として、先例ができたということにもなった。もちろん、韓国の有識者の間でも「長沼会長の判断は互譲の精神――今後の日韓問題に最も必要なもの」と評価する声が出ていた。


廃墟ヒロシマから全国一に

 長沼健が生まれ、育ったのは広島だった。彼が生まれる1ヶ月前、1930年7月に南米ウルグアイで第1回ワールドカップが開催されている。そしてまた、その2ヶ月の5月には、東京での極東大会で竹腰重丸を中心とする日本代表がフィリピンに勝ち、中華民国(中国)と引き分けている。いわば、この1930年は日本サッカーにも世界のサッカーにも画期的な年といえる。
 古くからサッカーが盛んな広島で、高等師範付属小学校に入ったから、自然にサッカーになじむことになる。7歳年長の兄・博(現・長沼商事会長)も付属小、付属中学でプレーしたが、父・鶴治(1896〜1969年)もサッカーをしていたという。第1次大戦で捕虜となったドイツ兵が似島(にのしま)の収容所にいて、彼らによって広島の中学、大学のサッカーがレベルアップした頃の話。お父さんは慶応大に進んだが、途中で体を悪くしてサッカーをやめたそうだ。
 サッカーに打ち込む家庭環境としては申し分なかったが、時代はすでに戦時下。付属中学に入学した年は、戦争の3年目に入り、グラウンドは食糧増産のためにイモ畑に変わるところだった。戦争が終わったのは中学3年生の夏。あの原爆の日には、学校での防空当番が前夜にあり、午前6時までいたのだが、その後、疎開先の自宅まで戻る途中だったので、被害に遭わなかった。
 再びサッカーをやろうと集まった仲間たちは、自分の手でボールを修理し、ゴールやゴールネットを自前で見つくろい練習した。その少年時代の思い出は、自著『サッカーに賭けた青春』(1969年、講談社発行)に生き生きと描かれている。
「グラウンドの整地、食糧調達、器材の作製など……。いま考えると、よくあれだけやったものだと思う。あの当時からみれば、現在の中学生や高校生のクラブ活動とは天国と地獄の差である。しかし、この地獄には作り出す喜びがあった、うたがあった。そして、なによりも、これらの行動を通じてのおたがいの強い連帯意識があった」
 戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現・高校選手権)が1947年12月に復活した。西宮球技場でのこの大会に、広島高等師範付属中学は圧倒的な強さで優勝した。
 1回戦の対都立五中(5−0)準々決勝の対小田原が4−0、準決勝、対甲府が5−0、決勝の尼崎中も7−1の大勝だった。
 その大量得点のもとは、FWの右サイド、木村、長沼とCF樽谷の見事な組み合わせにあったといわれた。木村のダッシュカ、長沼の幅広い動きと樽谷のパスは、当時の中学生レベルでは食い止められなった。この大会の1回戦、都立五中に岡野俊一郎がいた。後にともに、長く日本のサッカーのために働く優れた仲間との出会いだった。


長沼健・略歴1

1930(昭和5)年 9月5日、広島市に生まれる。
1937(昭和12)年 4月、広島高等師範付属小学放へ。
1943(昭和18)年 4月、同付属中学校へ。
1945(昭和20)年 8月、終戦。
1947(昭和22)年 12月、第26回全国中等学校サッカー選手権で同付属中学が優勝。
            木村、長沼、樽谷のFWの破壊力が抜群だった。
1948(昭和23)年 10月、第3回国体福岡大会で、同付属高校が優勝。
1949(昭和24)年 関西学院大学へ。
1950(昭和25)年 関西学生リーグ優勝。大学王座決定戦で早大と引き分け、以来、関西学生リーグ3連勝、1951(昭和26)年には学生王座に就く。
1953(昭和28)年 関学大を卒業、中央大学に入学。
            この年の夏、国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に日本代表としで参加。
1954(昭和29)年 3月、第5回ワールドカップ・アジア予選、日本対韓団第1戦に日本代表として出場。
            5月、第2回アジア大会日本代表。
1955(昭和30)年 3月、中大を卒業、古河電工に入社。
1956(昭和31)年 11月、メルボルン・オリンピック日本代表。


★SOCCER COLUMN

長沼家のDNA
 長沼家は、祖父・鷺蔵(さぎぞう)さんが明治中期に広島で電気工事の仕事を始めて成功した。もともとは近江源氏の流れをくみ、源平合戦の頃に広島近くまで来て戦った後、西条で八幡社の神職になっていた家系で、次男であった鷺蔵が浅野家に仕え、明治維新後に事業を興したという。健さんの父、鶴治さんを経て、今は兄の博さんが長沼商事の会長、その長男、毅(たけし)さんが社長となっている。毅さんも広島県協会の理事を務めている。
 日本の名字の研究では“沼”のつく姓は、沼地を埋め、新しく土地づくりをした開拓に関係あるとされている。サッカーで常により高いものを求めてきた健さんには、“長沼”のDNAが生きているのかもしれない。

原爆と戦争とサッカー選手
 8月が来るとメディアには終戦の日と広島、長崎への原爆投下をめぐって、さまぎまな報道が増え、あらためて考えさせられる。本文にもあるとおり、長沼家は市中から強制疎開していたために、原爆の被害を直接受けなかった。同じ広島出身で東洋工業や日本代表のGKとして活躍した下村幸男は、修道中学2年生のとき勤労部員で建物の取り壊し作業に出たが、風邪で体調を崩していたため、先生の指示で建物の陰に全員の弁当を集め、その見張り役になった。投下され爆発したとき、その建物の陰にいた弁当の見張り当番の3人だけが生き残った。
 ベルリン・オリンピックの代表のうち、対スウェーデン戦の決勝ゴールを挙げた松永行(東京高師)、2点目(同点)を決めた右近徳太郎(慶応)も戦死した。反撃の口火となる1点目を決めた川本泰三(早大)は満州(中国東北部)の関東軍にいて、シベリアに抑留、1949年に帰国した。FBの竹内悌三(東大OB)は、このシベリアレ抑留中に病死した。
 私より3つ年上で、ディフェンシプMFとして期待された水沢淳也(神戸高商)はビルマ(現・ミャンマー)で戦傷し、弾丸が入ったまま帰還し、弾丸を取り出すことができずピッチに立つことはなかった。京大の黄金期を築き、日本代表にも選ばれた小野礼年は小隊長として部下を死地から脱出させ、賞賛されたが、ビルマ戦の脱走で消耗した体は、かつてのプレーを取り戻すことはなかった。


(月刊グラン2003年9月号 No.114)

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