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オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)

関学を卒業して中大へ

 ワールドカップがスタートした1930年(昭和5年)に生まれた長沼健元・日本サッカー協会会長の、今に至る73年のサッカー人生は、前号で広島での少年時代と太平洋戦争の終わった直後の全国中等学校(旧制)サッカー選手権(現・全国高校サッカー選手権)優勝という、最初の華やかなステップまで記した。また、このときの1回戦の相手に岡野俊一郎(前・会長)がいたことにも触れた。
 それはともかく、旧制中学校から新制高校へと学校の制度が変わった後、1948年(昭和23年)秋の第3回国民体育大会(福岡)にも広島高等師範付属高校は優勝、翌年3月に関西学院大学に入学した。
 長沼と高師付属の木村、樽谷のFWトリオは関学でも実績を残す。関西学生リーグで3連覇し、関東大学リーグの優勝校と学生王座をかけて「東西学生1位対抗」も戦った。ほとんどのスポーツが関東優位のなかで、サッカーは大戦後しばらく東西拮抗が続いたのは、彼らのいた関学が関西の旗手として早大や慶応、あるいは新勢力の中央大、伝統の東京教育大(現・筑波大)などと張り合ってきたからだった。関西のナンバーワンから、日本の第一人者ヘ――厳しい練習と充実した4年間は過ぎ、やがて1953年(昭和28年)の春に関学を卒業した。
 普通ならここで社会人となって就職するところだが、4年間の大学サッカーでは、何かやり残したことがあるような気がした。
 父親の会社が電気関係であったところから、そのためにも理科系の知識を高めるという理由もあって、中大に入学した。関学では1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピック代表となった西邑昌一(故人)が、卒業後に早大に入学した例もあるが、2年間の学生生活の延長の間に、世界へ目を開くチャンスがやってきた。


ドルトムントでの学生大会

 1953年夏、国際大学スポーツ連盟(FISU)の主催で、国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)が西ドイツのドルトムントで開催された。そのメンバーに健さんも選ばれたのだった。
 大戦争が終わり、経済の困窮からようやく抜け出した日本だったが、まだまだ海外渡航は一般の人たちには夢だった。
1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピックにも、日本は水泳や陸上競技、レスリングといった個人種目には選手を送ったが、貴重な外貨を入賞の望みのないチーム競技には使えないとの理由で、サッカーはただ一人、竹腰重丸技術委員長が大会を視察し、世界のサッカーが大きく変わろうとするのを知った。
 日本サッカーの復興には若い力が必要、そして、その若いカにはヨーロッパの刺激が何よりだと竹腰は考えた。国際学生スポーツ週間にチームを派遣して、学生同士の交流をするだけでなく、ヨーロッパ各地を転戦し、見学し、一人一人の視野を広げて将来に役立てようと計画した。
 選ばれたプレーヤーは17人。

 ▽GK 村岡博人(東京教育大)玉城良一(立教大)
 ▽DF 平木隆三(関学大)山路修(早大)三村烙一(中大)岩田淳三(関西大)
 ▽MF 井上健(関学大)小田島三之助(早大)山口昭一(明大)高林隆(立教大)
 ▽FW 鈴木徳衛(慶応大)小林忠生(慶応大)木村現(関学大)長沼健(中央大)岡野俊一郎(東大)筧晃一(関西大)徳弘隆(関学大)

 一人当たり25万円の個人負担が必要で、出身校や府県協会が募金に働いた。


敗者へのスタンデイング・オベーション

 竹腰重丸団長、松丸貞一監督、大谷四郎コーチの3役員と17人の選手たちは、7月24日に日本を出発、8月9日からの大会に出場し、14日までに4試合を行なって2勝2敗で6位となった後、フランス、スウェーデン、ベルギー、英国、ユーゴスラビアなどを回り、57日間の大旅行を終えて帰国した。
 彼らにとって幸いだったのは、その年の6月に、西ドイツからオッフェンバッハ・キッカーズFCという強チームが来日し、日本で4戦全勝したが、そのとき、学生選抜チームと戦い、懸命に食い下がり、果敢に攻撃しようとする学生チームのひたむきさに強い印象を受けて帰ったこと。大会前の1週間、オッフェンバッハ市に滞在して、開幕の対西ドイツ戦に備えて十分なトレーニングができたのは、このオッフェンバッハ・キッカーズFCのおかげといってよい。
 そうして迎えた開幕試合は、シーソーゲームの末、日本が3−4で敗れた。相手は開催国で優勝候補。全力を尽くしながら敗れて、言葉もなくスタンドから引き揚げてきた日本選手を待っていたのは、食堂に集まった参加国全選手の温かい拍手だった。
 開会式直後の試合で、すべての競技参加選手たちが日本対西ドイツ戦を観戦し、日本の健闘に驚き、見事な試合を演じた敗者に拍手を送ろうと、全員が食堂で待っていてくれたのだった。
 日本の若者たちは、始め相手にとまどい、やがて、その意味を知り、感動した。


スポーツの原点をここに

 50年前を振り返って健さんはこう言う。
「竹腰さんには、この大会に参加するのは、単にサッカーの試合をするだけでなく、ヨーロッパで見聞を広めるのだ――と言われていた。そして、今度の参加選手のなかから、将来、日本のサッカーを背負って立つ人材が育ってほしい――とも。
 僕たちは、そんな期待されるほどの人間だとは思わないが、何しろ、試合に関係なく、イタリアでオペラ、スイスでは雄大な景色、パリではルーブル美術館という素晴らしいものに接する機会を持たせてもらった。そして、学生大会の初日でシーソーゲームを演じて惜敗した。皆、がっかりしたが、まあ、メシぐらいは食べようやと、シャワーを浴びた後、食堂へ入ると、今でいうスタンディング・オベーションが始まった。何のことか分からなくて、誰か偉い人でも来たのかと思ったぐらいだった。どうやら、僕たちを対象にしてくれていると分かった。『お前たち、ようやった』と。そうと気づいたとき、背筋に何かが――という感じだった。
 岡野さんが今でも言う。あれが原点だ。スポーツって、こんなに素晴らしいものだと感じたというが、皆、同じだった。座ってメシを食べながら、やはりスポーツってこれだな、と思った。
 得難い経験はいくつもあった。それぞれ一般家庭に分宿したこともそうだし、対戦で瓦礫と化した都市のなかに、見事な緑の芝生のグラウンドがいくつもあるのを見た驚きもその一つだった。後でドイツの戦後の復興をスポーツ振興、いわゆるゴールデン・プランにかけたことを知って、社会のなかでのスポーツの大きさ、大切さをあらためて思った」
 17人の若い学生たちのその後の足取りを見れば、何事も人づくりからと考えた竹腰重丸たち先達の狙いは成功だったといえるだろう。
 といって、健さんや岡野たちの世代が力を蓄え、発揮する東京、メキシコの両オリンピックまでに10年余の歳月が必要だった。


長沼健・略歴2

1958年(昭和33年) 5月、第3回アジア大会日本代表。
1960年(昭和35年) 5月、第40回天皇杯で古河電工が実業団チームとして初優勝。
1962年(昭和37年) 12月、日本代表監督に就任。
1964年(昭和39年) 10月、東京オリンピック日本代表監督、ベスト8.
1965年(昭和40年) 5月、日本サッカーリーグがスタート。この画期的な全国リーグの創設にかかわった。
1968年(昭和43年) 10月、メキシコ・オリンピック日本代表監督、3位、銅メダルを獲得。
             同チームに対してFIFA(国際サッカー連盟)とユネスコからそれぞれフェアプレー賞を受ける。
1969年(昭和44年) 10月、70年W杯予選(韓国・ソウル)で敗退。代表監督を退く。
1972年(昭和47年) 岡野監督辞任の後、再び日本代表監督に。
             4年後の76年6月、オリンピック予選で辞任。後任は二宮寛。
1976年(昭和51年) 日本協会専務理事に就任。改革の推進力となる。
1978年(昭和53年) 協会の登録制度を改め、社会人、学生といった社会的な身分でなく、年齢別に区分した。
1980年(昭和55年) 内にアマプロ研究委員会を結成。後に活性委員会となり、プロ化に向かう。
1987年(昭和62年) 副会長に。
1993年(平成5年) Jリーグがスタート。
1994年(平成6年) 会長に就任。
1998年(平成10年) W杯フランス大会に日本が初出場。大会終了後、会長を辞任。
             岡野俊一郎が会長に就任。
現在、JFA顧問、日本体育協会副会長、日本スポーツ少年団本部長、埼玉スタジアム場長。


★SOCCER COLUMN

銅メダルとフェアプレー賞 〜監督・長沼の誇り〜
 東京、メキシコ両オリンピックでの長沼監督の仕事については、この連載のデッドマール・クラマーの回(2001年3〜6月号)でも触れているが、監督として2度目のオリンピックで銅を獲得したメキシコ大会は、彼とその仲間にとって終生誇りとなるものだ。
 そのかげには、当時の協会が長沼、岡野の強化計画を承知してくれたので、2度も大会前にメキシコを訪れ、高地対策にめどをつけられたことが大きい。
 戦術はシンプル。皆で粘っこく守り、攻めてはボールを釜本に集め、釜本の破壊力を生かすというもの。岡野コーチの相手チームの分析と、個々の選手への細かな対応策と長沼の選手のモチベーションを高めるうまさが、見事に浸透した成果だろう。
 3位決定戦の前に、彼は選手たちにこう言っている。「相手は開催国のメキシコ。(半年前にメキシコで試合をしたとき、日本は完敗している)日本からの記者も含めて、ここへ来ている200人のメディアは誰一人、日本が勝つとは思っていない。いっちょう、やってやろうじゃないか」
 銅メダルとともに、監督・長沼の誇りは、この大会の日本代表がFIFAとユネスコの両方からフェアプレー賞を受けたことだ。
 レフェリーに文句をつけたところで、得になることは一つもない――と繰り返し注意していたことは、試合態度の好感と言うところに現れている。技術水準は高まったJリーグだが、この点は先輩たちに見習うべきだろう。

異能ストライカー、健さん
 選手時代の健さんは、ゴールゲッターとして知られていた。ただし、後輩の釜本邦茂のような目の覚めるような弾丸シュートというのは少なく、相手DFに当たったこぼれ球や、誰かのシュートのバーへのリバウンドなどに誰よりも早く、いい位置へスタートして、一瞬早くタッチしてゴールへ送り込むという“異能”のストライカーだった。
 古河電工の好敵手だった三菱重工のGK横山謙三(メキシコ・オリンピック代表)が、健さんのシュートはどこからか足が出てきて、ボールをトウかどこかで突く。ボールはゴールラインを越えると、ネットまでゆかずに止まってしまうようなシュート。点をあれで取られると嫌になってしまう――とこぼしていたという。「いつもペナルティ・エリアでは。かかとを上げて、ボールが落ちたとき、相手より5センチだけでも足が先にゆくように心がけていた」というのが、異能ストライカーの弁。1990年(平成2年)のワールドカップの準決勝、西ドイツ対イングランドで、西ドイツのDFのヘディングミスの場に居合わせたリネカーが、ゴールを決めるのを見たとき、私はリネカーの姿に、かつての健さんを重ねて、不思議な感覚の持ち主はイングランドにもいることを発見した。


(月刊グラン2003年10月号 No.115)

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