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ファイナルへ向かっての早朝の“ひかり”車中で1ヵ月を反芻――。

EURO2004の今昔

 J1のファーストステージ終盤の争いとともにEURO04も登場して、日々のテレビ、新聞のサッカー報道もにぎやかさを増した。24年前の最初の8チームが集結した大会、EURO80(イタリア大会)を取材したとき、日本の記者はサッカーマガジンとイレブンの専門誌から各一人、そして数人のフリーランスのカメラマンだけだったことを思うと、まさに今昔の感――。

 さて2年前の6月は、日本でのワールドカップの試合を追っての私の旅の反芻もいよいよ終盤に入る。
 6月30日午前6時。ひかり200号東京行きが新大阪駅を軽やかにスタートした。2002年ワルドカップ最終日だった。きょうで大会が終わるのだ――とあらためて思う。それにしても、決勝の当日に新幹線で出掛けるとは…。
 26日、埼玉でブラジル対トルコの準決勝を見た。27日、東京発“6時の”のぞみで新大阪経由、芦屋の自宅へ。前夜は深夜に大宮発の東北新幹線で東京のホテルに戻ったのに、こういうスケジュールになったのは27日には芦屋市民病院で午前中診療を受けることにしていたから。そしてまた午後には会計士の先生と会社のことで打ち合わせが待っていたからだ。
 28日には休養を取り、29日にはテレビで夜の3位決定戦を見た。
 もっとも、この日も朝9時15分から朝日放送のラジオ番組に顔を出したから結構、一日は長かった。


取材する者がされる側に

 今度の大会では、大会の一年以上も前からメディアが取り上げ方をそれぞれに工夫してくれた。その中で『最年長記者』というのがお気に召したのかどうか――。各紙の記者にインタビューされ、ラジオ番組などからも声が掛かった。
 座談はともかく、公の場での“おしゃべり”よりは“書く”方が楽なタチなのだが、せっかくメディアがサッカーについて書こう、語ろう、というときには、一字でもサッカーという文字や言葉があった方が良いと、書く方も取材される方も協力したから、結構忙しいことになった。
 考えてみれば、世界中から日本ヘサッカーの関係者やメディアが来ていた。
 移動のスケジュールをもう少しゆっくり取れば、そうした人たちと会うことができたはず。ちょっともったいないことをしたな。そんなことを振り返りながら、手帳を出してこれまでのメモときょうの予定を確かめる。きょうは横浜の会場へ行く前に午前10時から高輪プリンスホテルでデットマル・クラーマーに会うとある。そう彼の話を聞く前にこちらもあのハカン・シュキュルのファーステストゴ−ルの3位決定戦から遡って大会を振り返っておこう――。
 最終日、“一番長い日”が始まった。

(週刊サッカーマガジン2004年7月6日号)

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