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決勝当日に、あらためて思う。歴史を作ったデットマール・クラマー

 アジアカップが始まり、アテネ・オリンピックも近付いてきた。暑くにぎやかで、楽しい夏になりそうだ。
 さて、2002年ワールドカップを追う私の旅は、番外編で幾度と寄り道をしながら、6月30日の決勝当日となった。この日、早朝に芦屋を出発した私は、車中で大会を回顧しつつ東京ヘ――。横浜での本番を前にデットマール・クラマーと再び会うことになっていたからだ。


サッカー指導のための英語習得

 ピシッとスーツを着てクラマーがやって来た。高輪プリンスホテルのロビーはまだ人影は少なかった。せっかくの機会だからと誘っていた木ノ原久美記者を紹介し、おしゃべりを始める。大会中にすでに何度か会っている私よりも木ノ原さんの方がこの77歳の大コーチ、サッカーの碩学(せきがく)に対して新鮮だろうからと、私は専ら二人のやり取りを聞く側となる。
 42年前に初めて日本にやってきたクラマーは「英語の勉強をあまりしなかったので」と言っていた。だが翌年の再来日には、すっかり上手になっていた。そして、FIFAのコーチとして英語圏を指導するうちに英語が板についた。当然のことながら医学用語も英語だから、二人の会話の内容がロナウドの治療に及ぶと不勉強な私には難解になった。“日本人にはドイツ語より英語の方がいい”となれば、彼は遮二無二マスターした。彼の横顔を見ながら、その努力と集中力にはあらためて感心させられた。


松本育夫との独英問答

 彼の弟子の一人である松本育夫(メキシコ・オリンピック代表)がドイツでコーチ学を勉強していたとき、クラマーにまずドイツ語で話しかけたのにクラマーのロから戻ってきたのは英語だった。「僕のドイツ語を認めてくれなかった」と嘆いた松木育夫の話をしたところ、クラマーは「そうだったかな。なぜ、英語で答えたか?それは私がドイツ人以外にサッカーを語るとき、英語が出てくるようになってしまったのです」と答えていた。つまり、サッカーの話をするとき(ドイツ人以外と)、自然に英語が口から出る。世界中を飛び回り、英語でサッカーを指導したデットマール・クラマー。天職に対する自らの傾倒ぶりはかくの如しというべきか。
 この人が1960年に日本代表のコーチを引き受けなかったら、どうなっていたことか。単なる技術指導だけでなく、スポーツの組織、発展させていく方法、教え子たちへの自分の全人格の投影――。彼の弟子たちによって、開催にいたった2002年ワールドカップの決勝の日に、歴史を作るのは時代の“大きな流れ”ではあるのだが、それを形成するのは、結局は人間。そんなことをあらためて思った。

(週刊サッカーマガジン2004年8月10日)

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