賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)

オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)

 国際学生スポーツ週間(1953年、西ドイツ・ドルトムント市)に参加して、世界への目を開き、スポーツのよさに感銘を受けた22歳の長沼健は、翌年には日本代表となって、ワールドカップ予選の日韓戦、第2回アジア大会(フィリピン)に出場、1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピックにも参加した。いずれも成績は振るわず、メルボルン・オリンピックでは、現地で体調を崩すという不運も重なった。


企業チーム初の天皇杯

 当時の日本サッカーは大戦中の空白期を、その後の経済困難のために埋められず、アメリカ占領軍のベースボール奨励をバックに、戦前に輪をかけた野球人気が沸騰し、サッカーの普及とレベルアップはスムーズにはゆかなかった。
 1958年(昭和33年)、東京で開催された第3回アジア大会で、日本代表は1次リーグで香港とフィリピンに敗れてしまう。
 そうした“どん底”時代にあった日本サッカーだが、長沼健のサッカーは休むことなく続けられていた。1955年(昭和30年)に古河電工に入ると、サッカー部の強化の中心となり、彼のもとに集まった選手とともに1960年(昭和35年)5月、天皇杯に初優勝した。
 平木隆三、八重樫茂生、内野正雄、宮本征勝、GK保坂司といった日本代表が名を連ねていたから、当然といえるが、企業チームの初の天皇杯獲得は、大学生とそのOBによる学校中心のチームから企業チームヘサッカー界の勢力の変化を示すものだった。
 優秀なプレーヤーを、年齢幅の大きい企業チームでカを伸ばし、サッカー界の実力アップにつなげる健さんの戦略の一つだった。


クラマーの下で長沼、岡野コンビ

 1960年のローマ・オリンピックの予選で敗れた日本は、4年後の東京オリンピック開催を控え、しゃにむに代表を強化しなければならなかった。デットマール・クラマーという優れたドイツ人コーチが来日し、指導したことが起死回生につながる。
 そして、そのクラマーが代表チームの監督、コーチに選んだのが、長沼健と岡野俊一郎だった。
 それまでは戦前派の高橋英辰氏が監督をしていた。力量、識見、経験とも優れていたが、クラマーは東京大会には、選手たちと年齢が近く、いわば兄貴分のような若い監督、コーチでゆこうと考えたのだった。
 1962年(昭和37年)12月に32歳31凱歳の若い監督とコーチが就任した。
 以来、この2人は代表チームを指揮する現場でも、日本協会の仕事でも、互いに長所を認め、互いに補充するかたちで、数多くの実績をつくることになる。
 東京オリンピックは大戦後の荒廃から日本が立ち直ったことを世界にアピールし、また日本人に自信を取り戻すきっかけとなった画期的な出来事だったが、サッカーもまた、クラマー、長沼、岡野の3人の指導者と八重樫たち選手の頑張りで、アルゼンチンを破って、開催国の面目を保ち、国内でもサッカーの火を大きくした。
 勢いを得た2人は、クラマーのアドバイスに沿って、1965年(昭和40年)5月、オリンピックから半年後に、初の全国リーグ「日本サッカーリーグ」をスタートさせた。企業8チームによる、ささやかなスタートだったが、偉大な一歩だった。
 実力あるチーム同士のリーグ戦によって、サッカーの普及を図り、同時に選手たちの技術、体力、戦術などのアップを図る――という日本リーグ設立の狙いは、毎年代表チームを欧州へ送り込んで高いレベルの試合経験を積ませる強化策とともに、3年後のメキシコ・オリンピックで銅メダル獲得という成果となった。
 38歳の若い監督にとっての大きな栄誉だが、当時の代表チームのリポートを読めば、2度目のオリンピック本大会に向かう監督とコーチの周到で入念な準備ぶりがうかがわれる。
 1967年(昭和42年)秋のメキシコ・オリンピック大会予選を突破してからも、絶えず選手一人一人の向上を図ったこと、大会直前の相手チームのスカウティングやその情報に基づく作戦の立案と実行など、高度順応を含めて、すべて好結果につながった。


協会改革、Jリーグ、ワールドカップ

 1976年(昭和51年)、長沼健は日本協会の専務理事となった。世界のサッカーに追いつくためには、協会の改革が必要。そのためには、まず幹部の若返り――ということになった。
「野津謙という長年、尽くされた会長さんのあとを、新日鉄の平井富三郎社長にお願いすることになった。財界のトップで忙しいのに、月例の理事会を第3木曜日と決めると、ほとんど毎回、出席してくださった。サッカーについては知らないから、チームの成績については何もいわないが、協会の経理的、財政的に不明確なことは絶対にあってはいけないと厳しくいわれた。
 その平井さんに、あるとき午前中の会議は何であったか聞くと、日銀の政策委員会だったとおっしゃる。日銀の政策委員会といえば国の金融政策にかかわる、いわば何十兆円という話。それで午後のサッカー協会の理事会はといえば、今度の大会の弁当は、いくらのにするか――などということも出てくる。誠に申し訳ない気もしたが……」
 とは、健さんの回想。大所高所をしっかりつかむ会長の下で長沼専務理事は、協会財政の立て直しに成功する。
「1977年(昭和52年)のペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパンのころから、協会の決算が黒字になった。若い選手のヨーロッパ遠征が財政的に可能になったときは、とてもうれしかった」
 年齢登録制度に踏み切り、天皇杯を日本のすべての加盟チームに門戸を開いたのも、日本のスポーツでは初めてだった。
 底辺への広がりは大きくなり、協会の財政基盤もしっかりしてきた。
 しかし、代表チームはワールドカップのアジア予選を突破できない。オリンピックも本大会出場はなく、銅メダルの栄光は昔の話となろうとしていた。
 日本リーグの人気も停滞していた。
 誰が考えても、プロに踏み切るべきときが来ていた。それを日本体育協会というアマチュア競技団体の組織内にいるサッカー協会が、どのようなかたちで、いつプロ化を行なうかが問題だった。
 奥寺康彦が西ドイツでプロ選手となり、帰国して再び日本で試合をするという問題が起こって、アマチュアではなく、スペシャル・ライセンスド・プレーヤーという区分を登録規定に加えた。
 プロ化のための「活性委員会」が生まれ、さらに「プロ化検討委昇会」を協会のなかに設けて、これが開設準備室となる。そこに川淵三郎という適任者が就任して、1993年(平成5年)のJリーグ開幕へと急ピッチで進んだ。
 平井会長(1976〜1987年)の下で12年間、専務理事を務めた健さんは1987年(昭和62年)に副会長となり、Jリーグの誕生にかかわる。そして、1994年(平成6年)5月29日に第8代日本協会会長に就任した。
 Jリーグは、日本の新しい社会現象といわれるほどの人気があり、上々のスタートだった。しかし、新会長の前には、2002年(平成14年)ワールドカップの開催という大きな問題が横たわっていた。


★SOCCER COLUMN

好きな言葉はフォー・ザ・チーム
「志(こころざし)という言葉がある。“サムライ(士)のココロ(心)”とも見ることができるが、最近になって気がついたのは“数字の11(十と一)のココロ(心)”。つまりサッカーのイレプンの心が、つまりは“志”かなぁ――」
 我田引水的なジョークを交えて、好きな言葉に「志」を挙げたのは、若いうちから、より広いサッカーの世界、より高いサッカーのトップレベルを知り、それに追いつこうとした健さん。
「日本サッカーが少しずつよくなっても、これでいいと思ったことはなかった」と思い続けたのは、高い「志」の故だろう。もう一う好きなのは「フォー・ザ・チーム」――。
「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン(一人は全員のために、全員は一人のために)」というチームスポーツの原点は、少年期からサッカーというチームスポーツに打ち込んだ健さんの血となり、肉となっているようだ。
 ついでながら、嫌いな言葉は「公私混同」。

財界人・会長を感服させた……
 平井会長はこういう話をした。
「サッカーの素人の、いわば経済界の人間が会長になったのだから、協会の資金集めなどをすることになるのかと思っていたら、長い在任中にそんなことは一度もなかった。
 就任当時は赤字だと聞いていたのだが、結局は協会の事務局をはじめ、皆の努力で資金繰りをし、赤字を解消してしまった。こういう点で、スポーツの協会として誠にしっかりとしていると感じた」
 これは平井会長の後任の6代目、故・藤田静夫会長からのまた聞きである。平井さんはもともと、東京高等師範学校で同窓だった篠島秀雄さん(当時・日本協会副会長、三菱化成社長)に遺言のようなかたちで、会長就任を請われていたという。健さんが生まれた1930年(昭和5年)の極東大会の日本代表FWとして、立派な成績を残した篠島さんの友人の下で、長沼専務理事はいい仕事をしたことになる。

サッカー協会歴代会長
*初代(1921年9月10日〜1933年3月31日) 故・今村次吉
*2代(1935年4月1日〜1945年8月) 故・深尾隆太郎
*3代(1947年4月1日〜1954年4月18日) 故・高橋龍太郎
*4代(1955年4月1日〜1976年3月31日) 故・野津謙
*5代(1976年4月1日〜1987年3月31日) 故・平井富三郎
*6代(1987年4月1日〜1992年5月23日) 故・藤田静夫
*7代(1992年5月24日〜1994年5月28日) 島田秀夫
*8代(1994年5月29日〜1998年7月19日) 長沼健
*9代(1998年7月20日〜2002年7月19日) 岡野俊一郎
*10代(2002年7月20日〜現在) 川淵三郎


(月刊グラン2003年11月号 No.116)

↑ このページの先頭に戻る