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オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(続)

 日本サッカーが今日の“かたち”になるのに、その時々の大きなカとなり、影響を及ぽした人々を紹介するこの連載が始まったのが2000年4月号からです。長沼健さんは18人目の登場で、2003年9月号から11月号まで上、中、下と3回にわたって、選手、監督、そして日本サッカー協会(JFA)専務理事としての足跡をたずねました。今回の「続」は、第8代JFA会長としての2期4年間について――。


2002年ワールドカップ共催

 長沼健が日本サッカー協会の第8代会長に就任したのは1994年(平成6)年5月29日、63歳だった。
 専務理事として1976年(昭和51)年から21年間、JFAの改革に取り組み、副会長時代にはJリーグの誕生も見た。その翌年、会長に就任した健さんの前には、2002年(平成14)年にワールドカップを招致するという大仕事が待っていた。
 JFAが2002年大会を開催する意思があることをFIFA(国際サッカー連盟)に伝えたのは、1989年(平成元)年11月。どの国よりも名乗りは早く、1991年(平成3)年には招致委員会(会長・石原俊、元経済同友会代表幹事)がつくられ、1993年(平成5)年1月には15の開催会場の候補地も決定していた。
 いささかスローテンポではあったが、ワールドカップ開催への体制は整い始めた。しかし、韓国もまた、2002年開催を表明、1994年1月に韓国招致委員会が発足して、両国の招致合戦は激しくなっていた。
 スタートの早さでリードしていたように見えた日本側だったが、1994年5月にアジア連盟(AFC)から選出するFIFA副会長選挙で、韓国側に大差で敗れて、危機感が強まる。韓国は鄭夢準(チョン・モンジュン)会長がアジア選出の副会長になったことで、開催の議決権を持つ理事会(会長1人、理事20人)のなかで、自ら1票を持っただけでなく、ロビー活動をはじめ、すペての点で有利となる。
 日本も巻き返しをはかり、FIFAの理事や、その背後の各国協会、大陸連盟への働きかけを強めた。
 両国の招致合戦の激しいなかで、日本が頼みとしていたのはアベランジェ会長が日本開催を支持していたことだった。1974年(昭和49)翌年以来20余年、FIFAの発展に尽くしてきた同会長は圧倒的なカを持っていたが、1994年ごろから、次第にその独裁ぶりに反発の声も強まり、その反対勢力の欧州連盟(UEFA)への鄭会長の働きかけも注目されていた。
 1996年(平成8)年5月31日、チューリヒでFIFA理事会は2002年大会を日本、韓国の両国による共同開催で行うことを決定、発表した。
 前夜、アベランジェ会長が情勢の変化を知り、日本側に共同開催を納得させた上で、理事会には会長案として「共同開催」を提案し、満場一致で決定したのだった。
 会長とその反対派の勢力争いという図式で見ることもできるが、アジアでサッカーに熱心で経済カもある二つの国の、どちらか一つに開催を決めた場合、落選した国の打撃がどれだけ大きいか、歴史的な閑係も考えての柔軟なUEFAらしい考えが通ったといえる。
 ただし、共同開催はあり得ないというFIFA首脳の言葉を信じて努力した当事者にとっては、どこか承服しかねる決定でもあった。「志半ばにして……」という当時の記者会見での長沼会長の言葉に、その感情が表れているが、もともとポジティプな健さんにとって、「共催に決まった以上、それを立派にやるだけ」と言い続けているうちに、「本当に共同開催でよかった」と思うようになる――それが、2002年大会の成功につながった。
 日本のサッカー史のなかでも、大戦直後の最も「サッカー環境」の条件の悪い時代に成長期を送った健さんにとって、その整備は頭から離れることはない。
 ワールドカップの開催もまず、日本の各都市によいスタジアムができる、よい練習グラウンドが整備される――というふうに考える。
 Jがスタートしても、なかなか大型のスタジアムを持てなかったのが、ワールドカップによって、屋根付きのビッグスタジアムが生まれたのだから、共催であっても、まず開催できたことは、施設面からだけでも、素晴らしいことだった。


フランスへの道の険しさ

 2002年大会の開催が決まった日本にとって、1998年(平成10)年フランス大会に代表チームを出場させることは至上命題だった。
 ワールドカップの開催国で、それまでに一度も出場していないところはなかったのだ。
 その日本代表がアジア最終予選でつまずく。1997年(平成9)年9月7日に始まった5ヵ国のホーム・アンド・アウェーのリーグで、日本は1勝1分けの後、韓国とのホーム試合で1−2で敗れ、続くカザフスタンとのアウエーで引き分けてしまう(1−1)。リードしても、もう1点取りにゆこうというのでなく、守りに入って、結局、同点にされる。
 この代表チームのなかでの嫌な流れを断ち切るためには、理屈でなく、気分一新しかない。そう判断した長沼会長は、現地で加茂周監督の更迭を決めた。後任は岡田武史コーチ。チームの事情も、相手チームのことも一番よく知っている彼を選んだ(加茂監督もそう推薦した)。
 岡田コーチを呼んで「チームの指揮を執ってくれ」と言い、即答を迫り、岡田監督の誕生を見た。日本代表はウズベキスタンとも引き分け、帰国してのUAE(アラプ首長国連邦)戦も1−1。6試合で1勝4分け1敗となったが、11月1日のアウェーでの韓国戦を2−0で勝ってから勢いを盛り返し、ホームでカザフスタンを5−1で破り、韓国に次いでBグループ2位となった。ジョホールバルでのアジア第3代表決定戦、対イラン戦に勝って、初のワールドカップ出場を果たした。
 「ワールドカップの歴史の上で、開催国になって初めて大会に出場した国といったことにはなりたくなかった。皆のそういう気持ちが最後にフランス行きを決めることになった」と健さんは振り返る。
 もともとフランス大会を目指す代表チームの監督に加茂周を決めたのは、長沼会長だった。外国人監督を推す声もあったなかでの決断は失敗のようでもあったが、岡田コーチに引き継がれ、アジア予選の突破という成果を見た。フランスでは1勝もできなかったが、この大会での経験が、2002年の大会で開催国としての1次リーグ突破に役立ったことになる。
 フランス大会が終了して1ヵ月もたたぬ7月19日、長沼健は会長を退いた。67歳だった。
 第9代会長には岡野俊一郎が就任した。


ペレの涙とベッケンパウアーの賞賛

 1993年のJリーグ開幕の日、国立競技場でのオープニングセレモニーは、長くプロ化の問題に取り組んできた長沼健にとって、体に何かが走るような感動の時間だった。
 その時、隣席のベレも目に涙をいっぱい浮かべていた。サッカーを愛し続けたペレが、日本の新生の瞬間に涙してくれる。純粋なスポーツマンの心に、健さんは強くうたれた。
 2002年ワールドカップの決勝、ブラジル対ドイツの試合の直前に、2006年(平成18)年のワールドカップ・ドイツ大会の組織委員長、ベッケンバウアーがこう言った。「すべてが時間通りに、楽しく、美しく演出されている。真似のできないほどの日本の素晴らしい大会運営のおかげで、われわれは2006年に大変な課題を背負わされることになった」
 外交辞令であったかもしれない。しかし、あのベッケンバウアーからの賛辞に、長い間、サッカーにかかわり、協会にかかわり、ワールドカップにひたむきに取り組んできたことは決して無駄ではむかった――と健さんはうれしかった。

 照る日もあった。曇る日もあった。土砂降りの日もあった。40余年、日本サッカーとその中枢にかかわって、どんな時でもポジティブに考え、その姿勢を通してきたのは、なぜなのだろうか――。
 健さんの答えはこうだった。
「1953年(昭和28)年のドルトムントでの国際学生スポーツ週間に参加し、ヨーロッパ行脚をさせてもらって、割合に早いうちから、スポーツの大きさ、サッカーの世界の広さ、高さを感じさせてもらった。それに引き換え、わが日本は――といつも思うようになった。そういう“いつかは”という思いがあったから、いい目を見た時も、その後の停滞期にも、これでいいと思うことも、もう、どうでもいいやと投げやりになることもなかった。
 まあ、2002年のワールドカップのおかげで、スタジアムが先進国並みとはゆかなくても、少しは追いついたかなと。私どもの時代にしなければならない仕事の、ごく一部ができたかな。そして全国津々浦々までサッカーが知られるようになったと思う。
 もちろん、とても世界レベルになったとは思わない。そこは次の時代の人に受け継いでやってもらいたいと思っている」


★SOCCER COLUMN

6万人が80万人にJFAの登録メンバー
 日本サッカー協会の2002年度の登録チーム数は2万8260、登録メンバーは80万98人となっている。選手やチームのカテゴり−は年齢別になっていて、第1種(19歳以上)、第2種(18歳以下)、第3種(15歳以下=中学生)、第4種(12歳以下=小学生)、シニア(40歳以上)、女子に分かれている。
 1977年(昭和52)年、当時の長沼専務理事の下でスタートした時は第1種だけの登録で、3583チーム、6万8263人だった。
 Jリーグがスタートした1993年には登録プレーヤーが初めて70万人を超え、1996年には90万人を突破したが、現在では少子化の影響でやや減少している。最近では若者のほかに40歳以上のいわゆるシニアのプレーも盛んになり、2000年(平成12)年に始まったこの部門の登録も7000人を超えている。JFAでは、女子とシニア部門での拡充を含んで、3年後には全登録メンバー200万人を目標にしている。
 登録200万人といえば大きな数だが、日本よりも人口の少ないドイツ(7000万人)の登録人口が625万人、フランス(5000万人)で290万人というヨーロッパの大国から見れば、まだまだということになる。

長沼健のタイトル
◆プレーヤーとして
▽全国中等学校選手権(現・高校選手権) 優勝1回(広島高等師範付属中学)
▽第3回国体サッカー・高校の部 優勝1回(同付属高校)
▽関西学生リーグ3連勝、大学王座1回(関西学院大学)
▽天皇杯 第40、41回大会で2年連続優勝(古河電工)
▽天皇杯 第44回大会で八幡製鉄と決勝で引き分け、優勝(古河電工)
◆監督として
▽オリンピック 1964年東京大会ベスト8、1968年メキシコ大会銅メダル(フェアプレー賞)
▽アジア大会 1966年バンコク大会3位、鋼メダル


(月刊グラン2003年12月号 No.117)

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