賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >テレ・サンターナ「チャンピオンへの長い旅」

テレ・サンターナ「チャンピオンへの長い旅」

 このテレ・サンターナのインタビューは、第13回トヨタカップ(1992年12月13日・東京・国立)でサンパウロFC(ブラジル)の監督として来日したときに、試合2日前の練習後に行ったもの。
 サンパウロFCはこのときヨハン・クライフ監督のFCバルセロナ(スペイン)に2−1で勝った。彼らは次の年の第14回(1993年12月12日)でもACミランを破り、2年連続してヨーロッパ・南米大陸のクラブナンバーワンの座についたのだった。


選手の海外流出が多く、代表チームは“世界一”から20年も遠ざかっていても、ブラジルはやはりサッカーの“王国”。
そのブラジルで、もっともブラジルらしいチーム作りの名人、テレ・サンターナの話を聞きたいと、忙しい試合前のスケジュールにわりこんだ。
時間は短かった、応答のなかに、ブラジル・サッカーへの誇りと、選手への愛情がにじんでいた。


日本(サッカー)にはブラジルの血が似合う

――日本のサッカーはいまではブラジルとの交流ぬきには考えられないほど密接になりました。監督は日本の選手のプレーを見たことはありますか。

「サンパウロでは黒崎(鹿島アントラーズ)を見ました。いい選手です。日本ではヨーロッパスタイルのサッカーをしているようで、選手もヨーロッパ型が多いが、わたしはブラジル流の方がいいと思います。」

――ブラジル流といえば、日本のチームにもブラジルからペペ監督(読売ヴェルディ)、レオン監督(清水エスパルス)などの監督がきて、チームを指導している。ペペはフラビオさん、レオンはアルベスさんとそれぞれフィジカル・コーチもブラジル人です。
 いつの頃からブラジルではテクニコ(技術指導)の監督とフィジコ(フィジカル・トレーニングのコーチ)とがひとつのチームのように組むようになったのですか。

「そう1958年のワールドカップの前から、監督とフィジカル・コーチとが協力し合うようになりました。それまで、ブラジルではテクニックは重視したが、体力という面ではあまり重くはみていなかった。それではいけない、ということで、監督とフィジカル・コーチが、ひとつのグループをつくって指導するようになったのです。監督の考えを理解し、選手の体力づくりに責任を持ってくれるものがいるというのは大切です。」

――今の、サンパウロのフィジカル・コーチもあなたのグループですか。

「モアシール・サンタ―ナは1974年からずーっと私と共に働いています。サウジアラビアでも3年間、一緒だったし、わたしの2度目のW杯(メキシコ)でもそうです。サンパウロの監督を引き受けたときも、彼はたまたま、どのクラブとも契約していなかったので、来てもらったんです。」

 スウェーデンで行われた1958年のワールドカップ(W杯)は、ブラジルには初優勝した記念すべき大会、17歳のペレが登場、ペレ時代の幕明けでもあった。このときのブラジルのボールテクニックの素晴らしさは長く語られているが、その技術を大会で発揮するためにフィジカル・トレーニングにも力を入れたらしい。この大会に出場し、ブラジルと対戦したソ連代表もチームの報告書に「ソ連選手の体力は、瞬発力だけでなく、持久力でもブラジル選手に劣っていた」――とあった。
――ブラジルで監督になるためには、試験を受けたり、認定証をもらうことが必要なのですか。

「資格は必要ありません。監督であるためにはテクニックや戦術の知識と、チームを統率する能力が大切。たいていは選手として成功したものが特別に勉強して監督となります。その知識や経験、実績が問われるのです。」

――あなたもプロフェッショナル・プレーヤーでしたネ。

「フルミネンセ(リオデジャネイロ)でウイングをやっていました。ゼゼ・モレイラ監督が、わたしをウイングに使ったのです。さがり目のポジションのウイングでしたネ。(記録によると、テレ・サンターナはブラジル代表で三度プレーしたとある)
 選手を引退して、1965年にフルミネンセのユースのコーチになり、4年後に一軍の監督、それからアトレチコ・ミネイロ、サンパウロに少しいて、またアトレチコ・ミネイロ、リオのボタフォゴ、ついでグレミオ、パルメイラスなどを指導し、ブラジル代表の代表チームの監督にもなりました。」


監督は最も早く歳をとる仕事だ

――ムンディアリート(1981年1月のW杯優勝国大会)で、あなたが指揮したブラジル代表を初めて見ました。74年、78年と2回のW杯のチームが不満だっただけに、あなたのチームを見て、とてもハッピーでした。

「ブラジル代表チームの監督を引きうけた時、記者会見でこう言ったんです。『ブラジルでは代表チームの監督になるということは、もっとも早く歳をとる道を選んだということなんだ。ブラジルではナショナルチームは優勝しなければならない。2位では負けたと同じことなのだから』――」

――優勝するために、あなたは守備重点ではなく、攻撃重視のチームをつくった。

「1958年のブラジル代表は、ペレやガリンシャをはじめたくさんのいいプレーヤーがいたし、70年のメキシコ大会でもトスタンやリベリーノ、ジェルソンなど技術の高い選手で構成されていた。だから相手よりも多くゴールして勝ったのです。しかし、いくら技術の高いチームでも、ときには守りのミスで1点を奪われ、それで負けることもある。いつも勝つことを要求されると、守りを重視するようになるものです。」

攻めなければサッカーではない

――そしてザガロ(74年)やコウチンヨ(78年)といったすぐれた監督も、守備的になった。あなたは違ったが…。

「わたしは、攻めるサッカーが好きで、ブラジルのサッカーも攻めるところに楽しさがあると思ってます。選手たちもそうだし、ブラジルの観衆もそうです。皆が遊び、楽しむ試合をしたいのです。
 そして点を奪われないために、あるいは勝つために、ラフなプレー、汚い反則をするなどは許せません。」

――ムンディアリートのチームがオリジナルで、82年スペインW杯の代表チームはこれにジーコやファルカンが加わって充実し、誰もが優勝候補とみていたのにイタリアに負けましたネ。

「あのW杯ではいいプレーをして、1次リーグは3戦全勝。2次リーグでも、、まずアルゼンチンに勝ったのですが、イタリアに3−2で敗れた。両方とも、同じようにチャンスがあり、ブラジルは2点でしたが、イタリアは3点とったのです。」

――守備のいい、バチスタの欠場が響いた?

「あの試合について、いろいろな意見がマスコミから出ました。バチスタもそのひとりです。だが、彼はアルゼンチン戦でマラドーナにキックされて負傷し、この試合ではベンチにも入れなかったのです。」

――ペレは、その敗戦のとき、大会で最上のチームが敗れたといいました。多くの人が同意見だったと思いますが、あのようなチームをどのようにしてつくるのですか。

「代表チームでもクラブ・チームでもわたしは、先にもいったように、攻撃的サッカーが好きで、ブラジルのサッカーは、ボールテクニックを駆使して攻めるところによさがあります。
 だから第1に技術、そしてその技を発揮できる体力も大切です。それと、規律正しいことです。」


楽天的選手管理術

――ブラジル人は規律を守れと、やかましくいうと、イヤがると聞いていますが。

「わたしのいうのは、自分で、自分のことを考え、自分をコントロールすることです。自制心ともいえるでしょう。
 わたし自身タバコは嫌いですが、選手たちに「タバコを吸うな」とはいいません。過度になって、プレーに支障をきたすのがいけないのです。祝杯をあげるときには、わたしもビールを飲みます。しかし飲みすぎることはありません。といって、選手に飲むことを禁じたりはしません。
 選手たちは、本人が契約を全うし、プレーヤーとしての義務を果たすことが大切なのです。
 そのため、プレーヤーは、なにごとも、ほどほどに止めることを自分で心得てほしいのです。いまのサンパウロの選手は、こういう点では問題ありません。」

 テレ・サンターナは規律の厳しいことでも有名だった。合宿の門限もあったし、節制をよく口にしていた。しかし、彼の基本的な考えは、それを“守らせる”のではなく、選手が自分から“守る”ことにあるといえる。
――90年のイタリアワールドカップをどのように見ました?

「技術的には低かったと思います。優勝したドイツは他のチームよりよかったけれど、決してすばらしいとはいえません。アルゼンチンも2位になりましたが、合計6得点だから。体力面では当然、よく鍛えられてはいましたが……。
 92年のヨーロッパ選手権も、大会前には、オランダやイングランドに期待していたが、実際にはテクニックという点ではよくなかったですね。」

――攻めるチームということになると、むかしのように、いいウイングが必要なのでは。

「わたしたちの時代にはガリンシャというすばらしいテクニシャンがいた。彼のような選手がいればいいのですが、現代のサッカーではウイングはなくなったといえます。現在では、ウイングのスペースを他の選手がいかに利用するかということにかかっています。」

――81年の代表には左サイドにゼ・セルジオ(現日立コーチ)がいましたネ。

「彼は大した選手でした。いま、彼のような選手はいませんよ。サンパウロにはエリベウトンという選手がいます。いいプレーヤーですが、まだウイングの機能を果たしているわけではない。ただし、彼はケガのためトヨタカップには出られません。いまサンパウロ州リーグのボタフォゴ(リオのボタフォゴとは別)にいるピーラという選手が本当のウイングといえるようになるかもしれません。
 82年のW杯チームにも、本当の意味でのウイングはいませんでしたが、当時は“黄金のカルテット”といわれた中盤のプレーヤーがそろっていて、彼らは意志が通じあい、互いのプレーを理解していたから、非常にうまくいった。そして、そのウイングのスペースをも、だれかが出ていってカバーし、うまく利用したのです。
 いまのサンパウロも、ウイングのスペースを、誰かがカバーする、という役割です。」

――多くのチームをつくってきましたが、どのチームが一番印象に残っていますか。

「わたしは、自分を受け入れ、自分の考えを支持してくれるクラブには、すべてに愛情を持っています。もちろん、アトレチコ・ミネイロには5年、サンパウロは3年と2か月と期間も長かったので、それだけ愛情もあります。
(アトレチコ・ミネイロからは、レイナルド、トニーニョ・セレーゾ、パウロ・インドロ、ジョアン・レイテといった代表選手も育った)
 サンパウロは、なかでも2年連続優勝。それも、成績の悪いときに引きうけたのだから成功したといえるでしょう。」

――ブラジル・サッカー全体をみたとき、組織改革や、代表の強化など、多くの問題がありそうですね。ジーコがかつて改革案を唱えましたが……。

「ジーコはブラジルのスポーツ省の要職にあったとき、全国リーグの設立や、協会の組織の改革を考え、努力しました。抵抗にあって果たせなかったが、わたしは選手にも恩恵がうけられるこの案はいいと思っていました。
(ブラジルには州リーグと全国選手権があり、全国選手権の複雑なやり方はひと口に説明できないほど。これを、各州のトップクラスによる全国リーグにしようという改革案は、それぞれの州のサッカーの実力者たちによって、反対されている。同じクラスのビッグチーム同士が試合をするリーグ形式はトップ・レベルの強化にもなり、また一流クラブの財政も潤って、選手も恩恵をうけるはずなのだが、サッカーが社会の大きな部分を占め、それぞれの州や地方都市の政治家たちの権力ともからんでいるために、日本で考えるようなわけにゆかぬらしい。テレ・サンターナの口調も重くなる)」

――いい選手の海外流出はクラブにも、代表チームにも頭の痛い問題ですネ。

「選手たちが、自分のよりよい収入を求めるのは自然なことで、残念だが引き止めるわけにはいきません。サンパウロでも、このトヨタカップのあと、何人かは海外へ行くのではないでしょうか。」

――サッカーの将来は。

「ブラジルについていえば、問題はあっても前進し、向上しています。各クラブにはいい選手が育っています。ヨーロッパは、イタリア代表も質が落ちたし、イングランドも期待したほどにはよくなっていません。ドイツも同様に向上しているとは思えない。
 むしろヨーロッパでは、バルセロナやACミランのようなクラブが、外国からのプレーヤーによってアクセントがつき、いいチームになっていると思います。」

――サッカー以外に趣味は?

「ずーっとサッカーが好きで、ヒマがあれば試合を見に行きます。時間がなければサッカーのテレビを見ます。若いときからそうだったから、二人の子供の成長期にも、自分はあんまり、かまってやれませんでした。(笑)」

――そんなにサッカーが好きなら、このあとも監督を続けますか?ブラジル代表の面倒をもう一度、見てくれといわれたら……。

「答えはノーです。代表監督にはもうならないでしょう。サンパウロも、このトヨタカップのあと州リーグの最終戦までの契約で、そのあとは決めていないのです。」

――日本で監督をしてみたいとは思いませんか?

「住んでみたい国のひとつですネ。サッカーのマーケットも、大きくなったということだし、うーん、監督をしてもいいですネ。(笑)」

――この次に生まれ変わったら、やはり監督をやりますか。

「もう一度、この世に生まれるなら、こんどは選手としてバリバリやりたいですネ。前はガリンシャがいたからナショナル・チームのポジションはありませんでしたからね。」

――やはりウイングが好きなんですね。こんどはガリンシャがいても――ミッドフィールドでジーコのようになれば……。

「まあ、そんなにうまくはゆかないでしょう。(笑)」

――そのときには、わたしも、もう一度スポーツライターをして、インタビューをしたいものです。

「オブリガード、アリガトウ。」

根っからのサッカー好き、現代サッカー界にも、こうした選手の“自主”能力を重んじ、しかも成功している“古い”タイプのサッカー人がいることは、うれしいことだった


テレ・サンターナ

1931年7月26日ミナスジェライス州生まれ。
現役選手時代は、リオのフルミネンセで下がり目のウイングとしてプレー。監督業に転じてからは1971年にアトレテコ・ミネイロを第1回のブラジル全国選手権優勝に導いた。82年W杯(スペイン)でジーコ、ファルカン、ソークラテス、トニーニョ・セレーゾの黄金4人によるMFカルテットで魅惑的なサッカーを世界に披露。90年にはサンパウロFCの監督に就任し、チームを南米チャンピオンへと導いた。


(ジェイレブ 1993年3月号)

↑ このページの先頭に戻る