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ベルリン五輪で銅メダル

 冬の生活道具であったスキーを、遊びにし、冬のスポーツとして発展させたノルウェー人は、夏のスポーツ、サッカーにも傾倒を深め、1912年のストックホルム・オリンピックに参加以来、国際試合にも積極的となる。
 初めはスウェーデンやデンマークに負けてばかりだったが、やがては上達し、勝ち負けがほぼ同じとなる。そして1936年のベルリン・オリンピックでノルウェーは、センセーショナルなチームとなる。

 この大会では優勝候補のスウェーデンが極東からやってきた日本に負ける大番狂わせがあったが、当時のヨーロッパでは、開催国のドイツがヒトラー総統を含めた大観衆の前で、ノルウェーに敗れたのも大きな“事件”だった。

 ノルウェーは準決勝でイタリアに1−2で敗れたが、3位決定戦でポーランドを下して(3−2)銅メダルを獲得。このチームのコーチ、ハルボルセンが学生時代にドイツのハンブルグで組織的なサッカーを身につけたことが、チームの強化に役立った。2年後のフランスでのワールドカップにもこのチームは参加し、欧州予選でアイルランドを1勝1分け(3−2、3−3)で抑えて本大会に出場、前回チャンピオンのイタリアと1回戦で当たり、延長の末1−2で惜敗した。
 イタリアは34年のチームよりも技術は高く、このあとフランス、ブラジル、ハンガリーなどの強豪を下して連続優勝するのだが、この1回戦が最も苦しい試合となり、ノルウェーのアマチュアの実力は評判となった。

 平均して長身、頑強な身体を持つノルウェー人が、イングランドから学んだ“力”のサッカーは、戦術の進歩とともに第2次大戦前に一つのピークを迎え、国際的な評価も得た。だがしかし、第2次大戦後は長い間、檜舞台から遠のくことになる。
 1952年のヘルシンキ・オリンピックにチームを送ったあと、五輪予選には毎回出場。ワールドカップでも1958年スウェーデン大会の予選から参加を続け、欧州選手権も1958年−1960年度の第1回からエントリーしたが、予選を突破できないまま年を重ねた。

 東欧諸国が社会主義政府となり、スポーツは社会主義の成功の証としてのショーウィンドーと、それぞれの政府が力を入れ、また西欧はますますプロ化が進むという背景のなかで、ノルウェーは停滞するように見えた。
 1938年に始まり、第2次大戦中とその直後まで、1940年から1947年まで中断していた国内リーグは、1948年から復活し、12チームによる1部リーグの下に、A・B2組の2部リーグ、6地域に分かれる3部と、整然たる運営が行なわれているが、冬は寒いためにリーグもカップ戦も4月から11月まで。5ヶ月間はアウトドアでプレーはできない。
 このハンデを克服し、欧州の強国と戦うためにどうすればよいか――NFF(ノルウェー・フットボール協会)は、その方策を研究し、成果をあげたのだった。

 次号でNFFのレベルアップの方式を紹介し、また、世界でも高い水準にあるこの国の女子サッカーにもふれることにしたい。


(サッカーダイジェスト 1993年「蹴球その国・人・歩」)

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