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雪と氷の冬がハンデキャップ
「寒くて大変なところですヨ」
というのが沢辺カメラマンの第一声だった。
1981年11月、当時スポーツ紙にいた私は、第1回大阪女子国際マラソンの開催(1982年1月)にかかわり、ノルウェーのクリスチャンセン選手の招待を図っていた。クリスチャンセン選手といえば、トラックの長距離で名を知られるようになり、当時すでに世界のトップにあったグレテ・ワイツ選手に次ぐ、ノルウェー期待の新星だった。
その彼女の取材を、ドイツにいるサッカー・カメラマン沢辺氏に依頼した。彼は、早速クリスチャンセンの住むスタバンゲル市へ飛び、彼女の練習や日常生活を取材してくれた。だが、ドイツでも比較的気候のよいライン河畔のデュッセルドルフに住む沢辺氏にとって、ノルウェーはいささか寒かったらしい。
同市の病院に勤めていたクリスチャンセンは、取材に訪れた11月の寒く暗い朝も、いつも通り自宅から、走って病院へ通っていた――と沢辺氏のレポートにあった。
クリスチャンセンは、もともとは冬季スキーの距離競争(ディスタンス・レース)の選手だった。スキーの長距離の選手は、たいてい夏の間にクロスカントリーで身体を鍛えるのだが、彼女はその夏のランニングが世界的に認められて、陸上競技に転向したのだった。
彼女の例でも分かる通り、ノルウェーは冬の間は雪に覆われ、屋外のスポーツといえば雪上のスキーと、結氷した上をすべるスケート。スキーは冬の交通手段でもあり、道や野や山を歩き、走るための道具だったのが、後に山野を走る雪上のクロスカントリー、急斜面から段差を飛ぶジャンプへと発展した。スキーの距離競技は、ノルディック(ノルウェーの意味)競技と総称されるようになった。
雪と遊ぶ者にとって、冬のノルウェーは天国かもしれない。オスロ郊外にあるホルメンコーレンのジャンプ台は、いまなおジャンプを目指す若者たちのメッカとなっている。
イングランドから持ち込まれたサッカーにとりつかれた人たちも、初めのうち、夏はサッカー、冬はスキーというように、シーズンによる遊びの区分けで満足していた。しかし、ノルウェーのサッカーが国際舞台に登場し、強い相手にもたまに勝つ機会が生まれるようになると、よりサッカーに対する欲が高まってきた。
第2次世界大戦までにも、国際試合においていくつかの記念すべき好成績はあったが、1945年以降、東欧諸国が社会主義になって、国の政策でスポーツを奨励し、サッカーのレベルが上がっていた。それと同時に、西欧、南米はプロの時代が花盛りとなり、トップクラスの選手の技術や体力は著しく高まっていった。
こうした世界の流れのなかで、ノルディックスキーの世界的評価の高さに比べると、“冬のハンディキャップ”を背負うノルウェー・サッカーはいささか寂しいものだった。
隣国のスウェーデン、デンマークの国際舞台での活躍も刺激になった。とくに、84年ヨーロッパ選手権と86年W杯のデンマークの活躍は、同じバイキングの子孫たちの対抗意識を大いにかきたてた。
(サッカーダイジェスト 1993年「蹴球その国・人・歩」)