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人種隔離のサッカーから融合へ

 南アのサッカーが飛躍的に伸びるのは、第2次世界大戦後にプロフェッショナルが導入されてから。
 ナショナル・プロフェッショナル・フットボール・リーグという白人チームによるプロ・リーグが結成された(略称NFL)。初めのうちは、やはりケープタウンなどの英国系よりも、ヨハネスブルグやプレトリアなど内陸部のオランダ系によって創られた町からプロのクラブが生まれ、やがてケープ州にも広がるという図式だった。
 ヨハネスブルグ(標高1700メートル)のハイランド・パークFCや港町のケープタウン・シティ、あるいはダーバン・シティなどが初期に活躍した。
 このプロ導入の少し前、1952年に南アFAはFIFAに加盟し、1956年には北アフリカのエジプト、スーダン、エチオピアとともにアフリカ・サッカー連盟を設立、アフリカ選手権の開催を図った。しかし対戦直後のマラン内閣(1948−1954年)によって、アパルトヘイトの法令が次々に発令されていたこの国は、サッカー協会もまたアフリカ選手権の代表チームは「白人チームと非白人チームを別々に」といった申し入れをしなければならなかった。
 国際スポーツの社会で人種差別が許されるわけはなく、南アはアフリカ・サッカー連盟の組織づくりを提唱しながらその組織から締め出されてしまった。
 そして1964年、東京オリンピック開催の直前に開かれたFIFAの総会で、「人種差別はしてはならない」規約に違反しているという理由で、南ア・サッカー連盟は参加資格停止処分となった。
 東京オリンピックではガーナがベスト8、エジプトが準決勝に進むなどアフリカ勢の活躍をよそに、この大陸で最も早くサッカーを始めた共和国が国際舞台から締め出されたのだった。
 こうした国際社会の声を無視するように、国民党政権は、マラン内閣のあとも多くの法律を制定。押さえ込まれた非白人の間にサッカーがどんどん広がっていったのは、フラストレーションのはけ口を求めるためだったのか――。ともかく、1972年に非白人のプロ・リーグ、ナショナル・プロプロフェッショナル・サッカー・リーグ(NPSL)16のクラブによって結成された。
 ヨハネスブルグのカイザー・チーフスやオルランド・パイレーツ、プレトリアのサンダウンズやプレトリア・シティ、オレンジ州のブルームフォンテイン・セルチックなどがそれぞれの地域の声援をバックに戦い、やがて16から18チームに増え、キャッスル・リーグの名で親しまれた。
 オリンピックやワールドカップでのアフリカ・チームの活躍が目立ち始めた70年代から80年代の初めにかけて、南アの国際舞台への道はいっこうに開けなかったが、国内では白人チーム、非白人チームのそれぞれに他の人種を3人まで混合することを承認し、白人チーム対非白人チーム間の試合もできるようになった。
 1977年のケープタウン(白人)対バール(非白人)の対戦は、この国ではまことに画期的な“事件”だった。子供のときは白人と黒人が一緒に遊んでも、学校へ行くころには別々になるのが、サッカーのプレー(遊び)ということで再び戻ってきたのだから。
 白人チームが非白人チームのホーム・グラウンドで試合をするようにもなった。
 さらに人種混合の南ア代表チームが編成されて、ローデシア代表とヨハネスブルグで試合をして8人の白人と7人の非白人の南アが7−0で勝って3万人の観衆を喜ばせた。ちなみに7得点のうち4点を白人、3点を非白人が決めた。
 こうしたスポーツでのデタントはあっても、政府の体制保持の姿勢は固く、それへの反対運動もまた激しくといった調子で、デモと弾圧が繰り返された。しかし長くつらい反アパルトヘイト運動は、1990年に入って、ついにネルソン・マンデラの釈放という大きな局面を迎える。デクラーク大統領がアパルトヘイトの廃止を宣言するまでになった。


(サッカーダイジェスト1992年5月号「蹴球その国・人・歩」)

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