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バルカン半島の複雑さ

 こうして19世紀末から20世紀の初めにかけて、サッカーはギリシャ市民のあいだに広まってゆくが、首都アテネとマケドニアのサロニカがそれぞれの地域の中心勢力となり、両市の対抗意識とともにサッカーの浸透が進んで、有力クラブも生まれてきた。
 いまのパナシナイコスは、1908年の創立当初は「パンヘレニック」と英語名だったのを、のちにギリシャ語に改めたもの。
 PANATHINAIKOSは、PAN・AHTNAIKOS。つまりパン(すべての)アテネ人となる。学生のころ哲学の時間で習ったプラトンの「アテナイ人諸君」という呼びかけを、このパン・アテニアン――パナシナイコスというサッカー・クラブの名とともに思い出す(パンはパン・アメリカンのパン)。

 アテネ郊外の港ピレウスにオリンピアコスが創立されたのが1914年。サロニカにアリス・テッサロニキができたのは1905年と古い。トルコに近いロードス島にも1905年にディアゴラス・ロードスが創られている。

 面白い名前はAEKアテネ。1924年設立だが、もともと現在のトルコのコンスタンチノープル(イスタンブール)からの引き上げ者が、アトリティキ・エノンス・コンスタンチノーポレオスの頭文字を略称としたもの。同じコンスタンチノープルへの郷愁は、サロニカのPAOKテッサロニキ(1926年創立)のなかのKにも現れている。
 紀元前7世紀にギリシャの植民都市ビザンチウムとして建設され、紀元330年にローマのコンスタンティヌス大帝の名をつけ、コンスタンチノープルと呼ばれたこの町は、東ローマ帝国の首都となる。15世紀にオスマントルコが占領してからは長く首都として定められ、名前もイスタンブールとなったが、その複雑な歴史を、サッカーのクラブの名前から私たちも感じることができる。

 ユーゴスラビアの分裂をはじめとするバルカン半島の難しい状況は、その遠因を探ればオスマントルコの勢力下にあったころにまで到るという。ワールドカップ予選でのユーゴの欠場と、それに代わるギリシャの出場で、私たちには難解なバルカンの民族問題、宗教問題にも当面することになる。


(サッカーダイジェスト 1992年vol.68「蹴球その国・人・歩」)

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